・・・ かれは恐る恐るそこらをぶらつき初めた。夢路を歩む心地で古い記憶の端々をたどりはじめた。なるほど、様子が変わった。 しかしやはり、変わらない。二十年前の壁の穴が少し太くなったばかりである、豊吉が棒の先でいたずらに開けたところの。・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・さすがの女ギョッとして身を退きしが、四隣を見まわしてさて男の面をジッと見、その様子をつくづく見る眼に涙をにじませて、恐る恐る顔を男の顔へ近々と付けて、いよいよ小声に、「金さん汝情無い、わたしにそんなことを聞かなくちゃアならない事をしてお・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・透かさず女は恐る恐る、「何卒わたくし不調法を御ゆるし下されますよう、如何ようにも御詫の次第は致しまする。」と云うと、案外にも言葉やさしく、「許してくれる。」と訳も無く云放った。二人はホッとしたが、途端にまた「おのれの疎忽・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・と、恐る恐るたずねてみました。「はあ。」と優しく答える奥様の笑顔は、私にはまぶしかった。「先生は、」思わず先生という言葉が出ました。「先生は、おいででしょうか。」 私は先生の書斎にとおされました。まじめな顔の男が、きちんと机の前・・・ 太宰治 「恥」
・・・恐いものは見たい。恐る恐る訊く私が知識の若芽を乳母はいろいろな迷信の鋏で切摘んだ。父親は云う事を聴かないと、家を追出して古井戸の柳へ縛りつけるぞと怒鳴って、爛たる児童の天真を損う事をば顧みなかった。ああ、恐しい幼少の記念。十歳を越えて猶、夜・・・ 永井荷風 「狐」
・・・鼠色した鳩が二、三羽高慢らしく胸を突出して炎天の屋根を歩いていると、荷馬の口へ結びつけた秣桶から麦殻のこぼれ落ちるのを何処から迷って来たのか痩せた鶏が一、二羽、馬の脚の間をば恐る恐る歩きながら啄んでいた。人通は全くない。空気は乾いて緩に凉し・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ら拝観の手続きをなすべき案内をも知らなかったので、自分は秋の夜の静寂の中に畳々として波の如く次第に奥深く重なって行くその屋根と、海のように平かな敷地の片隅に立ち並ぶ石燈籠の影をば、廻らされた柵の間から恐る恐る覗いたばかりであった。 翌日・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・ シャロットの女の投ぐる梭の音を聴く者は、淋しき皐の上に立つ、高き台の窓を恐る恐る見上げぬ事はない。親も逝き子も逝きて、新しき代にただ一人取り残されて、命長きわれを恨み顔なる年寄の如く見ゆるが、岡の上なるシャロットの女の住居である。蔦鎖・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・碌さんは見当を見計って、ぐしゃりと濡れ薄の上へ腹をつけて恐る恐る首だけを溝の上へ出して、「おい」「おい。どうだ。豆は痛むかね」「豆なんざどうでもいいから、早く上がってくれたまえ」「ハハハハ大丈夫だよ。下の方が風があたらなくっ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ロマーシの命令は「おとなしく聞かれたが、彼等はまるで、他人の仕事をするように、恐る恐る、何だか絶望的に働く」のであった。往還の末に、村長と村の商人を先頭とする金持の塊が認められた。彼等は見物人のように何もせずに立って、手や棒を振りながら叫ん・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫