・・・と云う意味は悔恨や憂慮の苦痛をも甞めなければならぬ。殊に今度の大地震はどの位我我の未来の上へ寂しい暗黒を投げかけたであろう。東京を焼かれた我我は今日の餓に苦しみ乍ら、明日の餓にも苦しんでいる。鳥は幸いにこの苦痛を知らぬ、いや、鳥に限ったこと・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・ 次の瞬間にクララは錠のおりた堂母の入口に身を投げかけて、犬のようにまろびながら、悔恨の涙にむせび泣く若いフランシスを見た。彼女は奇異の思いをしながらそれを眺めていた。春の月は朧ろに霞んでこの光景を初めからしまいまで照している。 寺・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 自分はこの全滅的荒廃の跡を見て何ら悔恨の念も無く不思議と平然たるものであった。自分の家という感じがなく自分の物という感じも無い。むしろ自然の暴力が、いかにもきびきびと残酷に、物を破り人を苦しめた事を痛快に感じた。やがて自分は路傍の人と・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・その悔恨はひしひし胸にこたえて、深いため息をするほかはない。「ねいあなた、わたしがいちばん後に見た時にはだれかの大人下駄をはいていた。あの子は容易に素足にならなかったから下駄をはいて池へはいったかどうか、池のどのへんからはいったか、下駄・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・ そう感ずると、自分の経験の貧困に対して、悔恨の情が湧くのであります。高い山に登らなかったのが、その一つでした。山岳美に恵まれた日本に生れながら、しかも子供の時より国境の山々を憧憬したものを。なぜ足の達者なうちに踏破を試みなかったか、こ・・・ 小川未明 「春風遍し」
・・・若し、健康でいたならば二人は、いかにこの世の中が苦しいところであろうとも、また幾多生を享楽すべきこともあったのにと考えると、親として、悔恨の深いものがあります。そして、夭折した二児のことを考えるたびに、せめて、正しく生きる為には、余生をいか・・・ 小川未明 「貧乏線に終始して」
・・・ればつまり、地盤が出来ておれば、アンチテエゼの作品が堂々たるフォームを持つことができるのだが、日本のように、伝統そのものが美術工芸的作品に与えられているから、そのアンチテエゼをやっても、単に酔いどれの悔恨を、文学青年のデカダンな感情で告白し・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・宮川町。悔恨と焦躁の響きのような鴨川のせせらぎの音を聴きながら、未知の妓の来るのを待っている娼家の狭い部屋は、私の吸う煙草のけむりで濛々としていた。三条京阪から出る大阪行きの電車が窓の外を走ると、ヘッドライトの灯が暗い部屋の中を一瞬はっとよ・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・ったのか、なるほどそんな噂が立つのも無理はあるまいという想いにいきなり胸をつかれたが、同時に佐伯の生活にはもはや耳かきですくうほどの希望も感動も残っていず、今は全く青春に背中を向け、おまけにその背中を悔恨と焦躁の火でちょろちょろ焼かれている・・・ 織田作之助 「道」
・・・それに、娘の方から寝台へ誘ったといっても、万一それが無邪気な気持からであったとすれば小沢の思い違いはきっと悔恨を伴うだろう。「君、こうしていて怖くない……?」 小沢はそうきいてみた。すると、娘は、「怖くないわ、あたし怒らないわ」・・・ 織田作之助 「夜光虫」
出典:青空文庫