・・・一条にまでちゃんと見覚えのある植込の梢を越して屋敷の屋根を窺い見る時、私は父の名札の後に見知らぬ人の名が掲げられたばかりに、もう一足も門の中に進入る事ができなくなったのかと思うと、なお更にもう一度あの悪戯書で塗り尽された部屋の壁、その窓下へ・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・瞽女はどこまでもあぶなげに両方の手を先へ出して足の底で探るようにして人々の間を抜けようとする。悪戯な聞手はわざと動かないで彼の前を塞ごうとする。憫な瞽女は倒れ相にしては徐に歩を運ぶ。体がへなへなとして見える。大勢はそこここから仮声を出して揶・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・そうかと思うと悪戯好の社友は、余が辞退したのを承知の上で、故さらに余を厭がらせるために、夏目文学博士殿と上書をした手紙を寄こした。この手紙の内容は御退院を祝すというだけなんだから一行で用が足りている。従って夏目文学博士殿と宛名を書く方が本文・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・その悪戯の例はいくらもあります。それを御話するために此処へ登ったんじゃないが、如何にわれわれが悪かったかということを懺悔するために御話するのであるから、その真似をしちゃいけませんよ。現に彼処に教場に先生の机がある。先ず私たちは時間の合間合間・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・でも餓鬼大将の悪戯小僧は、必ず僕を見付け出して、皆と一緒に苛めるのだった。僕は早くから犯罪人の心理を知っていた。人目を忍び、露見を恐れ、絶えずびくびくとして逃げ回っている犯罪者の心理は、早く既に、子供の時の僕が経験して居た。その上僕は神経質・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・「汝など悪戯ばりさな、傘ぶっこわしたり。」「それからそれから。」三郎はおもしろそうに一足進んで言いました。「それがら木折ったり転覆したりさな。」「それから、それからどうだい。」「家もぶっこわさな。」「それから。それか・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・その一層明らかな証拠には、いつも活溌に眼を耀かせ、彼を見るとすぐにも悪戯の種が欲しいと云うような顔をする彼女が、今朝は妙に大人びて、逆に彼を労り、母親ぶり「貴女に判らないこともあるのですよ」と云いたげな口つきをしているではないか。 彼が・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・こんな時は木村の空想も悪戯をし出す事がある。分業というものも、貧乏籤を引いたもののためには、随分詰まらない事になるものだなどとも思う。しかし不平は感じない。そんならと云って、これが自分の運だと諦めているという fataliste らしい思想・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・街街の一隅を馳け廻っている、いくら悪戯をしても叱れない墨を顔につけた腕白な少年がいるものだが、栖方はそんな少年の姿をしている。郊外電車の改札口で、乗客をほったらかし、鋏をかちかち鳴らしながら同僚を追っ馳け廻している切符きり、と云った青年であ・・・ 横光利一 「微笑」
・・・付け焼き刃に白眼をくるる者は虚栄の仮面を脱がねばならぬ、高き地にあってすべてを洞察する時、虚栄は実に笑うに堪えぬ悪戯である。美を装い艶を競うを命とする女、カラーの高さに経営惨憺たる男、吾人は面に唾したい、食を粗にしてフェザーショールを買う人・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫