・・・が、これは眼の小さい、鼻の上を向いた、どこかひょうきんな所のある老人で、顔つきにも容子にも、悪気らしいものは、微塵もない。着ているのは、麻の帷子であろう。それに萎えた揉烏帽子をかけたのが、この頃評判の高い鳥羽僧正の絵巻の中の人物を見るようで・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・ どうして礼なんぞ遣っては腹を立って祟をします、ただ人助けに仕りますることで、好でお籠をして影も形もない者から聞いて来るのでございます、と悪気のない男ですが、とかく世話好の、何でも四文とのみ込んで差出たがる親仁なんで、まめだって申上げた・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・おとよさんももちろん人をばかにするなどの悪気があってした事ではないけれど、つまりおとよさんがみんなの気合いにかまわず、自分一人の秘密にばかり屈託していたから、みんなとの統一を得られなかったのだ。いつでも非常なよい声で唄をうたって、随所の一団・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・家の母などもただそればかり言って嘆いて居ますが、それも皆悪気があっての業でないのですから、私は勿論民さんだって決して恨みに思やしません。何もかも定まった縁と諦めます。私は当分毎日お墓へ参ります……」 話しては泣き泣いては話し、甲一語乙一・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・東京ならば牛鍋屋か鰻屋ででもなければ見られない茶ぶだいなるものの前に座を設けられた予は、岡村は暢気だから、未だ気が若いから、遠来の客の感情を傷うた事も心づかずにこんな事をするのだ、悪気があっての事ではないと、吾れ自ら頻りに解釈して居るものの・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ お千代はそれほど力になる話相手ではないが悪気のない親切な女であるから、嫁小姑の仲でも二人は仲よくしている。それでお千代は親切に真におとよに同情して、こうなって隠したではよくないから、包まず胸を明かせとおとよに言う。おとよもそうは思って・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・「おまえは、悪気のある女ではないが、そういって、三人に約束をしたのはほんとうか。」と、仏さまは、女にたずねられました。「わたしが悪うございます。そういって、三人に約束をしました。けれど、心からうそをいう気でいったのではございません。・・・ 小川未明 「ちょうと三つの石」
・・・しかし、やがてあの人にはそんな悪気は些かもないことがわかった。自分で使うよりは友人に使ってもらう方がずっと有意義だという綺麗な気持、いやそれすらも自ら気づいてない、いわば単なる底ぬけのお人よしだからだとわかった。すると、もう誰もみな安心して・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・と、その顔は、なにか極まり悪気な貌に変わってゆきました。「なんでもないんです」 澄んだ声でした。そして微笑がその口のあたりに漾いました。 私とK君とが口を利いたのは、こんなふうな奇異な事件がそのはじまりでした。そして私達はその夜・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・綱雄さんだって悪気で言ったのではありませんよ。何ですねえそんな顔をなすって。 ええ引ッ込んでいろ。手前の知ったことではないわ。と思わぬ飛※を吹きぬ。 それは大事な魂胆をお聞き及びになりましたので、と熱心に傾聴したる三好は顔を上げて、・・・ 川上眉山 「書記官」
出典:青空文庫