・・・ 乱雑。悪臭。 ああ、荒涼。四畳半。その畳の表は真黒く光り、波の如く高低があり、縁なんてその痕跡をさえとどめていない。部屋一ぱいに、れいのかつぎの商売道具らしい石油かんやら、りんご箱やら、一升ビンやら、何だか風呂敷に包んだものやら、・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・おりからの炎熱とともに、ただならぬ悪臭を放つようになった。こんどは家内が、まいってしまった。「ご近所にわるいわ。殺してください」女は、こうなると男よりも冷酷で、度胸がいい。「殺すのか」私は、ぎょっとした。「もう少しの我慢じゃないか」・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・と鍵の束持てるポマアドの悪臭たかき一看守に背押されて、昨夜あこがれ見しテニスコートに降り立ちぬ。 銅貨のふくしゅう。……の暗躍。ただ、ただ、レッド・テエプにすぎざる責任、規約の槍玉にあげられた鼻のまるいキリスト。「温度表を見て下さい・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・三郎は嘘の最後っ屁の我慢できぬ悪臭をかいだような気がした。 三郎は父の葬儀を近くの日蓮宗のお寺でいとなんだ。ちょっと聞くと野蛮なリズムのように感ぜられる和尚のめった打ちに打ち鳴らす太鼓の音も、耳傾けてしばらく聞いていると、そのリズムの中・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・しかし異国的なゴムの葉のにおいばかりは、少なくも当時の自分の連想の世界を超越した不思議な魔界の悪臭であった。この悪臭によって自分はこの現世から突きはなされてただ一人未知の不安な世界に追いやられるような心細さを感ずるのであった。もちろんその当・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・釜石の港へはいると、何とも知れない悪臭が港内の空気に滲み渡っていて、浜辺に近づくほどそれが猛烈になる。夥しいかもめの群れが渦巻いている。いかの大漁があったのが販路を失って浜で腐ったのであった。上陸後半日もすると、われわれ一行の鼻の神経は悪臭・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・チュリップ、ヒヤシンス、ベコニヤなどもダリヤと同じく珍奇なる異草として尊まれていたが、いつか普及せられてコスモスの流行るころには、西河岸の地蔵尊、虎ノ門の金毘羅などの縁日にも、アセチリンの悪臭鼻を突く燈火の下に陳列されるようになっていた。・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・焔はなくて、湿った白い烟ばかりが、何とも云えぬ悪臭を放ちながら、高い老樹の梢の間に立昇る。老樹の梢には物すごく鳴る木枯が、驚くばかり早く、庭一帯に暗い夜を吹下した。見えない屋敷の方で、遠く消魂しく私を呼ぶ乳母の声。私は急に泣出し、安に手を引・・・ 永井荷風 「狐」
・・・其夜演奏が畢って劇場を出ると、堀端からはハーモニカや流行唄が聞え、日比谷の四辻まで来ると公園の共同便所から発散する悪臭が人の鼻を衝く。家に帰ると座敷の内には藪蚊がうなっていて、墻の外には夜廻の拍子木が聞えるのである。わたくしは芸術が其の発生・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・私は人がよく後指さして厭がる醜い傴僂や疥癬掻や、その手の真黒な事から足や身体中はさぞかしと推量されるように諸有る汚い人間、または面と向うと蒜や汗の鼻持ちならぬ悪臭を吹きかける人たちの事を想像するし、不具者や伝染病や病人の寝汗や、人間の身体の・・・ 永井荷風 「夏の町」
出典:青空文庫