隅田川の水はいよいよ濁りいよいよ悪臭をさえ放つようになってしまったので、その後わたくしは一度も河船には乗らないようになったが、思い返すとこの河水も明治大正の頃には奇麗であった。 その頃、両国の川下には葭簀張の水練場が四・・・ 永井荷風 「向島」
・・・そして、頭部の方からは酸敗した悪臭を放っていたし、肢部からは、癌腫の持つ特有の悪臭が放散されていた。こんな異様な臭気の中で人間の肺が耐え得るかどうか、と危ぶまれるほどであった。彼女は眼をパッチリと見開いていた。そして、その瞳は私を見ているよ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・そこの内部は何か人目からかくされた場所で、そこにある丁度いい暖かさ、体にあった窪みを、ほかのものには相当堪え難い悪臭とともに、自分たちの巣の懐かしさとして愛着する、そういうところがありはしないだろうか。 家庭のくつろぎ、居心地よさという・・・ 宮本百合子 「家庭創造の情熱」
・・・往来近いところは長い乱れた葦にかくされているが、向う側の小店の人間が捨てる必要のある総ての物――錆腐った鍋、古下駄から魚類の臓腑までをこの沼に投げ込むと見えアセチリン瓦斯の匂いに混って嘔吐を催させる悪臭が漲っている。 蒸気の艫へ、三人か・・・ 宮本百合子 「九月の或る日」
・・・体全体から嘔きたくなるような悪臭がした。弁当を出し入れする戸口のところに突立ったなりどうしても坐らず、グー、グー喉を鳴らしている。 どの監房でも横にはなっているがまだ眠り切らない。初夏に近い宵らしく下駄の音などが頻りに聞え、外で遊んでい・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・ 榎南謙一 特殊部落に恐るべき悪臭をふきつける火葬場移転要求をして、二年も闘っているところへ指導に行った若い全会の闘士と、それを支持する少年等、やがてその村をおそった嵐について書かれ、実感のこもった、描写もある。しかし、この部落の闘争・・・ 宮本百合子 「小説の選を終えて」
・・・について語っていた時分、十歳年下のトルストイはセバストウポリの要塞で戦争の恐ろしい光景を死屍の悪臭とともに目撃していた。パリでトルストイに一生忘られない戦慄を与えたのは娼婦のあでやかな流眄ではなくて、ギロチンにかけられた死刑囚の頭と胴とが別・・・ 宮本百合子 「ツルゲーネフの生きかた」
・・・真似したとすれば、彼の文章の調子の最も消極的であるところだけが瑣末的な精密さや、議論癖、大袈裟な形容詞、独り合点などだけが、大きいボロのような重さで模倣者の文章にのしかかり、饐えた悪臭を発するに過ぎないであろう。 バルザックの文体を含味・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
・・・建物の真下を走っている大下水から汚物の悪臭がのぼって来る。その床はぼろぼろで洗えもしない。壁には塵埃が厚くこびりついて寝台は四マイルもぎっしりつめられていた。ところ嫌わず南京虫の大群が横行している。フロレンスがみたどこの貧民窟よりも不潔であ・・・ 宮本百合子 「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」
・・・そこには、市街の真中で無遠慮に悪臭を放っている塵芥捨場などはない。又、半年の間続く厳しい冬もなければ、本を読むことさえ罪になるという正教の大斎週間のような納得のゆかない習慣もない。パリでは、馬車の御者、労働者、小僧のような「下層民」でもゴー・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫