・・・夫の外交官も新時代の法学士ですから、新派悲劇じみたわからずやじゃありません。学生時代にはベエスボールの選手だった、その上道楽に小説くらいは見る、色の浅黒い好男子なのです。新婚の二人は幸福に山の手の邸宅に暮している。一しょに音楽会へ出かけるこ・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・それが悲劇の終局であった。人間の死と変りない、刻薄な悲劇の終局であった。――一瞬の後、蜂は紅い庚申薔薇の底に、嘴を伸ばしたまま横わっていた。翅も脚もことごとく、香の高い花粉にまぶされながら、………… 雌蜘蛛はじっと身じろぎもせず、静に蜂・・・ 芥川竜之介 「女」
・・・ 正月早々悲劇の絶頂が到来した。お前たちの母上は自分の病気の真相を明かされねばならぬ羽目になった。そのむずかしい役目を勤めてくれた医師が帰って後の、お前たちの母上の顔を見た私の記憶は一生涯私を駆り立てるだろう。真蒼な清々しい顔をして枕に・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・みずから得たとして他を笑った喜劇も、己れの非を見いでて人の危きに泣く悲劇も、思えば世のあらゆる顕われは、人がこの一事を考えつめた結果にすぎまい。三 松葉つなぎの松葉は、一つなぎずつに大きなものになっていく。最初の分岐点から最・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・そうしてすべてこれらの混乱の渦中にあって、今や我々の多くはその心内において自己分裂のいたましき悲劇に際会しているのである。思想の中心を失っているのである。 自己主張的傾向が、数年前我々がその新しき思索的生活を始めた当初からして、一方それ・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ 人が、自殺した人の苦痛を想像して見るにしても、たいていは自殺そのものの悲劇をのみ強く感ずるのであろう。しかし自殺者その人の身になったならば、われとわれを殺すその実劇よりは、自殺を覚悟するに至る以前の懊悩が、遥かに自殺そのものよりも苦し・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・おはまのそぶりについて省作もいくらか、気づいておったのだけれど、どうもしようのない事であるから、おとよにも話さず、そのままにしていたのだが、いよいよという今日になってこの悲劇を演じてしまった。「あんまり人さまの前が悪いから、おはまさんど・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・歓楽湧くが如き仮装の大舞踏会の幕が終ると、荒涼たる日比谷原頭悪鬼に追われる如く逃げる貴夫人の悲劇、今なら新派が人気を呼ぶフィルムのクライマックスの場面であった。 風説は風説を生じ、弁明は弁明を産み、数日間の新聞はこの噂の筆を絶たなかった・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・そういう悲劇的な場合にあって、殆んど、狂熱的に、自己を鞭打ったものは、自分の意志より他にない。そして柔順で、献身的であった、妻の愛に救われたというより他に、何ものかありません。『彼は、其の日暮らしに、追われている』と、いう蔑視から、資本家や・・・ 小川未明 「貧乏線に終始して」
・・・らず、世間づきあいも出来ず、他人の仲介がなくてはひとに会えず、住所を秘し、玄関の戸はあけたことがなく、孤独な将棋馬鹿であった坂田の一生には、随分横紙破りの茶目気もあったし、世間の人気もあったが、やはり悲劇の翳がつきまとっていたのではなかろう・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
出典:青空文庫