・・・ その男は、悲鳴をあげ、罵った。 イワンは、それ以上見ていられなかった。やりきれないことだ。だが無情に殺してしまうだろう。彼は馬の方へむき直った。と、その時、後方で、豆がはぜるような発射の音がした。しかし、彼は、あとへ振りかえらなか・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・尻を殴られた豚は悲鳴を上げ、野良を気狂いのように跳ねまわった。 二人は、初めのうちは、豚を小屋に追いかえそうと努めているようだった。しかし豚は棒を持った男が近づいて来ると、それまでおとなしくしていたやつまでが、急に頭を無器用に振ってはね・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・おさだは口走ったが、その時おさだの眼は眼面におげんの方を射った。「気違いめ」 とその眼が非常に驚いたように物を言った。おさだは悲鳴を揚げないばかりにして自分の母親の方へ飛んで行った。何事かと部屋を出て見る直次の声もした。おげんは意外・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・あの本には、なんでも皆、書かれて在るんだけれど、いまは泣きたくなって、舌もつれ、胴ふるえて、悲鳴に似たかん高い声を挙げ、「要するに。」きょうだいたちは、みな一様にうつむいて、くすと笑った。「要するに、」こんどは、ほとんど泣き声である・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・と思いちがいしながらも飽くことなくそれからそれと語りつづけるに違いない。けれども、聞き手はついにたまりかねて、「なるほど君は幸福だ。」と悲鳴に似た讃辞を呈して私の自慢話をさえぎり、それから一つの質問を発する。「けれども、この写真には、君・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ グワンと、こぶしで頬を殴られ、田島は、ぎゃっという甚だ奇怪な悲鳴を挙げた。その瞬間、田島は、十貫を楽々とかつぐキヌ子のあの怪力を思い出し、慄然として、「ゆるしてくれえ。どろぼう!」 とわけのわからぬ事を叫んで、はだしで廊下に飛・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・自然力に襲われた木の葉のそよぎ、浪の叫び、人間の悲鳴! 「苦しい! 苦しい!」 その声がしんとした室にすさまじく漂い渡る。この室には一月前まで露国の鉄道援護の士官が起臥していた。日本兵が始めて入った時、壁には黒く煤けたキリストの像が・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・このような夜に沖で死んだ人々の魂が風に乗り波に漂うて来て悲鳴を上げるかと、さきの燐火の話を思い出し、しっかりと夜衣の袖の中に潜む。声はそれでも追い迫って雨戸にすがるかと恐ろしかった。 明方にはやや凪いだ。雨も止んだが波の音はいよいよ高か・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・ところが、その家の庭に咲き誇った夕顔をせせりに来る蛾の群が時々この芳紀二八の花嫁をからかいに来る、その度に花嫁がたまぎるような悲鳴を上げてこわがるので、息子思いの父親はその次の年から断然夕顔の裁培を中止したという実例があるくらいである。この・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・ところが、その家の庭に咲き誇った夕顔をせせりに来る蛾の群れが時々この芳紀二八の花嫁をからかいに来る、そのたびに花嫁がたまぎるような悲鳴を上げてこわがるので、むすこ思いの父親はその次の年から断然夕顔の栽培を中止したという実例があるくらいである・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
出典:青空文庫