・・・二葉亭がかつて疑いがあるから哲学で、疑いがなくなったら哲学でなくなるといった通りに、悶えるのが二葉亭の存在であって、悶えがなくなったら二葉亭でなくなる。命のあらん限り悶えから悶えへと一生悶えを追って悶え抜くのが二葉亭である。『浮雲』の文三が・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
私にとっては文芸というものに二つの区別があると思う。即ち悶える文芸と、楽しむ文芸とがそれである。 吾々の此の日常生活というものに対して些の疑をも挾まず、有ゆる感覚、有ゆる思想を働かして自我の充実を求めて行く生活、そして何を見、何に・・・ 小川未明 「絶望より生ずる文芸」
・・・き得べしと期待し、生きたいと希望して居る者すらあるまい、否な百歳・九十歳・八十歳の寿命すらも、先ずは六かしいと諦らめてるのが多かろうと思う、果して然らば彼等は単純に死を恐怖して、何処までも之を避けんと悶える者ではない。彼等は自ら明白に意識せ・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・もう読むまいと思っても、それでも何か気がかりで、新聞などに島田の新刊書の広告などが出ていると、ついまた注文してしまって、そうして読んで、悶えるのです。実に私は不仕合せな男です。そう思いませんか。島田の小説の中にこんな俳句がありました。白足袋・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・足を悶える度にそれがコツコツ戸棚や扉に当る堅い冷たい不愉快な感覚が非常に誇張されて苦しみを助けた。室の入口の壁に立っているスチームヒーターの上に当る白壁が黒く煤けているのが特に目立って不愉快であった。妙な事にはこの汚い床の上に打倒れてうめい・・・ 寺田寅彦 「病中記」
・・・ 若い人の心は悶えるのも人一倍くるしみのますものじゃ。火の様になった若人の頭に額に一寸手を置いて御やりなされ、さもなくば髪の毛の上にかるい娘らしい接吻をなげて御やりなされ。第二の精霊 して御やりなされ、悪い大神の御とがめをうくるほど・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・わけの分らない悶える心を抱えてこないだよりはずっと衰えた力のない青いかおをして女の家の格子をあけた。格子に手をかけてヒョッと見るといつもの笑をかお一っぱいにして女が立って居た。男は一寸手を引いたけれ共思いきった様にあけてたたきに立った。女は・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
出典:青空文庫