・・・四月の末だというのに、湿気を含んだ夜風が、さらさらと辻惑いに吹迷って、卯の花を乱すばかり、颯と、その看板の面を渡った。 扉を押すと、反動でドンと閉ったあとは、もの音もしない。正面に、エレベエタアの鉄筋が……それも、いま思うと、灰色の魔の・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・苔に惑い、露に辷って、樹島がやや慌しかったのは、余り身軽に和尚どのが、すぐに先へ立って出られたので、十八九年不沙汰した、塔婆の中の草径を、志す石碑に迷ったからであった。 紫袱紗の輪鉦を片手に、「誰方の墓であらっしゃるかの。」 少・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ 寺田はしかしそんなあたりの空気にひとり超然として、惑いも迷いもせず、朝の最初の競走から1の番号の馬ばかり買いつづけていた。挽馬場の馬の気配も見ず、予想表も持たず、ニュースも聴かず、一つの競走が済んで次の競走の馬券発売の窓口がコトリと木・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・ われ二郎に向かいて、御身は宝丹持ちたもうならずやと問えば、二郎、打ち惑いたるさまにてわずかに、しかりと答う。かの君の肝太きことよ、直ちに二郎に向かって、少し賜わずやと求めたもう。貴嬢がこの時の狼狽のさまこそおかしけれ、君よさまでには候・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・凡て女の惑いからいろんな混雑や悲嘆が出て来るものです。現に僕の事でも彼女が惑うたからでしょう……」 お正はうつ向いたまま無言。「それで今夜は運よくお互に会うことが出来ましたが、最早二度とは会えませんから言います、貴女も身体も大切にし・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・か命か家を俊雄に預けて熱海へ出向いたる留守を幸いの優曇華、機乗ずべしとそっと小露へエジソン氏の労を煩わせば姉さんにしかられまするは初手の口青皇令を司どれば厭でも開く鉢の梅殺生禁断の制礼がかえって漁者の惑いを募らせ曳く網のたび重なれば阿漕浦に・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・お三輪と同じように焼出された親戚の中には、東京の牛込へ、四谷へ、あるいは日暮里へと、落ちつく先を尋ね惑い、一年のうちに七度も引越して歩いて、その頃になってもまだ住居の定まらない人達すらあった。 お三輪は思い出したように、仮の仏壇のところ・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・現代の人間が四十歳くらいで得た人生観や信条をどこまでも十年一日のごとく固守して安心しているのが宜いか悪いか、それとも死ぬまでも惑い悶えて衰頽した躯を荒野に曝すのが偉大であるか愚であるか、それは別問題として、私は「四十にして不惑」という言葉の・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・牝牛を買いたく思う百姓は去って見たり来て見たり、容易に決心する事ができないで、絶えず欺されはしないかと惑いつ懼れつ、売り手の目ばかりながめてはそいつのごまかしと家畜のいかさまとを見いだそうとしている。 農婦はその足もとに大きな手籠を置き・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・哲学においては医者であったために自然科学の統一するところなきに惑い、ハルトマンの無意識哲学に仮りの足場を求めた。おそらくは幼いときに聞いた宋儒理気の説が、かすかなレミニスサンスとして心の底に残っていて、針路をショオペンハウエルの流派に引きつ・・・ 森鴎外 「なかじきり」
出典:青空文庫