・・・現に僕の事でも彼女が惑うたからでしょう……」 お正はうつ向いたまま無言。「それで今夜は運よくお互に会うことが出来ましたが、最早二度とは会えませんから言います、貴女も身体も大切にして幾久しく無事でお暮しになるように……」 お正は袖・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・さてはいよいよこれなりけりと心勇みて、疾く嚮導すべき人を得んと先ず観音堂を索むるに、見渡す限りそれかと覚しきものも見えねばいささか心惑う折から、寒月子は岨道を遥かに上り行きて、ここに堂あり堂ありと叫ぶ。嬉しやと己も走り上りて其処に至れば、眼・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・これらの失敗に際して実験者当人は、必要条件を具備すれば、結果は予期に合すべきを信ずるが故にあえて惑う事なしとするも、いまだ科学的の思弁に慣れず原因条件の分析を知らざる一般観者は不満を禁ずる能わざるべし。また場合により実験の結果が半ばあるいは・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・ランスロットは惑う。 カメロットに集まる騎士は、弱きと強きを通じてわが盾の上に描かれたる紋章を知らざるはあらず。またわが腕に、わが兜に、美しき人の贈り物を見たる事なし。あすの試合に後るるは、始めより出づるはずならぬを、半途より思い返して・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・人か馬か形か影かと惑うな、只呪いその物の吼り狂うて行かんと欲する所に行く姿と思え。 ウィリアムは何里飛ばしたか知らぬ。乗り斃した馬の鞍に腰を卸して、右手に額を抑えて何事をか考え出さんと力めている。死したる人の蘇る時に、昔しの我と今の我と・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・(これはこれ 惑う木立 どこからかこんな声がはっきり聞えて来ました。諒安は眼をひらきました。霧がからだにつめたく浸み込むのでした。 全く霧は白く痛く竜の髯の青い傾斜はその中にぼんやりかすんで行きました。諒安はとっと・・・ 宮沢賢治 「マグノリアの木」
・・・ 散々思い惑うた末、先の内お君が半年ほど世話になって居た、森川の、川窪と云う、先代から面倒を見てもらって居る家へ出かけて見る気になった。 けれ共、考えて見れば川窪へも行かれた義理ではない。お君が、我儘から辛棒が出来ないで、母親に嘘電・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ やがて我に還ると、私は、執拗にとう見、こう見、素晴らしい午後の風景を眺めなおしながら、一体どんな言葉でこの端厳さ、雄大な炎熱の美が表現されるだろうかと思い惑う。惑えば惑うほど、心は歓喜で一杯になる。 ――もう一つ、ここの特徴で・・・ 宮本百合子 「この夏」
・・・心のうちでは、そんなことをしている寒山、拾得が文殊、普賢なら、虎に騎った豊干はなんだろうなどと、田舎者が芝居を見て、どの役がどの俳優かと思い惑うときのような気分になっているのである。 ――――――――――――「はなはだむ・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
出典:青空文庫