・・・それに博士は、ひどい汗かきなのに、今夜は、ハンカチを忘れて出て来たので、いっそう惨めなことになりました。はじめは掌で、お顔の汗を拭い払って居りましたが、とてもそんなことで間に合うような汗ではございませぬ。それこそ、まるで滝のよう、額から流れ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・君は、ことさらに自分を惨めに書く事を好むようですね。やめるがよい。貯金帳を縁の下に隠しているのと同じ心境ですよ。あの、蔵の中の娘さんとも、君は毎晩、散歩していたそうじゃないか。女中さん達が、そう言っていたぜ。キスくらいは、したんじゃないか。・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・昨年、二科から脱退して、新浪漫派とやらいう団体を、お作りになる時だって、私は、ひとりで、どんなに惨めな思いをしていた事でしょう。だって、あなたは、蔭であんなに笑って、ばかにしていたおかた達ばかりを集めて、あの団体を、お作りになったのでござい・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・作者は、いよいよ惨めになるばかりである。 いやなら、よしな、である。ずいぶん皆にわかってもらいたくて出来るだけ、ていねいに書いた筈である。それでも、わからないならば、黙って引き下るばかりである。 私の友人は、ほんの数えるくら・・・ 太宰治 「自作を語る」
・・・「いつまでもこのような惨めな暮しを続けていては、わが立派な祖先に対しても申しわけが無い。乃公もそろそろ三十、而立の秋だ。よし、ここは、一奮発して、大いなる声名を得なければならぬ」と決意して、まず女房を一つ殴って家を飛び出し、満々たる自信・・・ 太宰治 「竹青」
・・・ 拾い集めてもらって、また食べるなんて、あまり惨めだ。惨めすぎる。少しは、こっちの気持も察してくれよ。まだ、七、八百円は残っている筈だ。新円だぞ。それで肴を買って来い。たったいま買って来い。ケチケチするな。鯛でも鮪でも、漁師の家にあるものを・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・道太はいたるところで少年時代の自分の惨めくさい姿に打つかるような気がしたが、どこも昔ながらの静かさで、近代的産業がないだけに、発展しつつある都会のような混乱と悪趣味がなかった。帰るたびに入りつけた料理屋へついて、だだっ広い石畳の入口から、庭・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 一生涯、俺は呪ってやる、たといどんなに此先の俺の生涯が惨めでも、又短かくても、俺は呪ってやる。やっつけてやる、俺だけの苦しみじゃない、何十、何百、何万、何億の苦しみだ。「たとえ、お前が裁判所に持ち出したって、こっちは一億円の資本を擁する大・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・押えても押えてもやり切れぬ憤激が。惨めさがあった。泣いても泣いても泣き切れぬ惨めさが。恩愛も、血縁も、人格的なつながりもない……から死命を制せられている自分!」うたい上げられた調子はあるが沈潜して読者の心をうち、ともに憤激せしめる迫力は欠け・・・ 宮本百合子 「一連の非プロレタリア的作品」
・・・ ほんとうにお君も惨めなりゃ、あの男だって可哀そうじゃあありませんか。 田舎医者位、病気についての智識のある主婦は、いろいろ気を揉んで、どんな人にかかって居るのだろうとか、細まごました注意は姑などでとどくものではないなどと云って・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
出典:青空文庫