・・・この至廉な札を眺めると共に、今まで恋愛と芸術とに酔っていた、お君さんの幸福な心の中には、そこに潜んでいた実生活が、突如としてその惰眠から覚めた。間髪を入れずとは正にこの謂である。薔薇と指環と夜鶯と三越の旗とは、刹那に眼底を払って消えてしまっ・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・ロシアの民衆が無智の惰眠をむさぼっていたころに、いわゆる、ブルジョアの知識階級の青年男女が、あらゆる困難を排して、民衆の蒙を啓くにつとめた。これが大事な胚子となって、あのすばらしい世界革命がひき起こされたのだ。この場合ブルジョアジーの人々が・・・ 有島武郎 「広津氏に答う」
・・・階級といい習慣といい社会道徳という、我が作れる縄に縛られ、我が作れる狭き獄室に惰眠を貪る徒輩は、ここにおいて狼狽し、奮激し、あらん限りの手段をもって、血眼になって、我が勇敢なる侵略者を迫害する。かくて人生は永劫の戦場である。個人が社会と戦い・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・議会の開けるまで惰眠を貪るべく余儀なくされた末広鉄腸、矢野竜渓、尾崎咢堂等諸氏の浪花節然たる所謂政治小説が最高文学として尊敬され、ジュール・ベルネの科学小説が所謂新文芸として当時の最もハイカラなる読者に款待やされていた。 二十五年前には・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・ 以上は新型式の勃興に惰眠をさまされた懶翁のいまださめ切らぬ目をこすりながらの感想を直写したままである。あえて読者の叱正を祈る次第である。 寺田寅彦 「俳句の型式とその進化」
出典:青空文庫