・・・三男の蟹は愚物だったから、蟹よりほかのものになれなかった。それが横這いに歩いていると、握り飯が一つ落ちていた。握り飯は彼の好物だった。彼は大きい鋏の先にこの獲物を拾い上げた。すると高い柿の木の梢に虱を取っていた猿が一匹、――その先は話す必要・・・ 芥川竜之介 「猿蟹合戦」
・・・吉助は愚物ながら、悶々の情に堪えなかったものと見えて、ある夜私に住み慣れた三郎治の家を出奔した。 それから三年の間、吉助の消息は杳として誰も知るものがなかった。 が、その後彼は乞食のような姿になって、再び浦上村へ帰って来た。そうして・・・ 芥川竜之介 「じゅりあの・吉助」
・・・殊に外国の従軍武官は、愚物の名の高い一人でさえも、この花やかさを扶けるためには、軍司令官以上の効果があった。 将軍は今日も上機嫌だった。何か副官の一人と話しながら、時々番付を開いて見ている、――その眼にも始終日光のように、人懐こい微笑が・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・私はある主義者たちのように、そういう人たちを頭から愚物視することはできない。かかる人はいかなる時代にも人間全体によっていたわられねばならぬ特種の人である。しかし第二の種類に属する芸術家である以上は、私のごとく考えるのは不当ではなく、傲慢なこ・・・ 有島武郎 「広津氏に答う」
・・・翌朝お帰りの事も、ございましたが、私は別に何とも思っていないのに、あなたは、それは精しく前夜の事を私に語って下さって、何先生は、どうだとか、あれは愚物だとか、無口なあなたらしくもなく、ずいぶんつまらぬお喋りをはじめます。私は、それまで二年、・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・その気の毒な、愚かな作家は、私同様に、サロンに於て気のきいた会話が何一つ出来ず、ただ、ひたすらに、昨今の天候に就いてのみ語っている、という意味なのであろうが、いかさま、頭のわるい愚物の話題は、精一ぱいのところで、そんなものらしい。何も言えな・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・四千万の愚物と天下を罵った彼も住家には閉口したと見えて、その愚物の中に当然勘定せらるべき妻君へ向けて委細を報知してその意向を確めた。細君の答に「御申越の借家は二軒共不都合もなき様被存候えば私倫敦へ上り候迄双方共御明け置願度若し又それ迄に取極・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
出典:青空文庫