・・・かれが蒼白き顔は電燈の光を受けていよいよ蒼白く貴嬢がかつて仰ぎ見て星とも愛でし眼よりは怪しき光を放てり。ただいずこともなく誇れる鷹の俤、眉宇の間に動き、一搏して南の空遠く飛ばんとするかれが離別の詞を人々は耳そばだてて聴けど、暗き穴より飛び来・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・だからこのごろときどき耳にする恋愛結婚より、見合結婚の方がましだなどと考えずに結婚に入る門はやはりどこまでも恋愛でなくてはならぬ。純な、一すじな、強い恋愛でなくてはならぬ。恋愛から入らずに結婚して、夫婦道の理想を立てようなどというのは、霊の・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・もいちど言う、言葉で表現できぬ愛情は、まことに深き愛でない。むずかしきこと、どこにも無い。むずかしいものは愛でない。盲目、戦闘、狂乱の中にこそより多くの真珠が見つかる。『私、――なんにも、――』そうして、しとやかにお辞儀して、それだけでも、・・・ 太宰治 「創生記」
・・・博識な良人につれそう家事的な情愛深い妻としてアンリエットは、息子カールに対しても、言葉のすくない母の愛で、その精神と肉体とをささえていたと思われる。男の子が、もし母の愛と、その生活の姿とで、女性への優しい思いやりをはぐくまれなかったら、どう・・・ 宮本百合子 「カール・マルクスとその夫人」
・・・ 愛が愛でありうるのは、それがつねに具体的であるからである。あらゆる状況に面してひるまず、その必要に応じて必ずなにかの方法を愛が見いだすのは、それが具体的であるからこそだと思う。美が美として存在するのも具体的だからこそである。空虚な空間・・・ 宮本百合子 「現代の主題」
・・・そのような愛でない愛を、愛として夫婦生活の上に押しつけ、当人もそれに納っているような社会の卑俗な常識に抗議をしている。一人の女のそういう経験は、その女が広い人間的生活への要求から経験されている以上、社会的な意味と内容とを持つ性質のものである・・・ 宮本百合子 「「伸子」について」
・・・「おおいかに新田の君は愛でとう鎌倉に入りなされたか」「まだ、さては伝え聞きなさらぬか。堯寛にあざむかれなされて、あえなくも底の藻屑と……矢口で」「それ、さらば実でおじゃるか。それ詐偽ではおじゃらぬか」「何を……など詐偽でおじ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・私は自分に近い人々を一人一人全身の愛で思い浮かべ、その幸福を真底から祈り、そうしてその幸福のためにありたけの力を尽くそうと誓いました。やがて私の心はだんだん広がって行って、まだ見たことも聞いたこともない種々の人々の苦しみや涙や歓びやなどを想・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫