・・・ただ、この派の学徒たちは、すべて感情を殺すということ、その中でもとりわけ怒を押えること、そして、どんな苦しいことでも、じっとがまんするということを、人間の第一の務めだと考えていました。こういう風に自分の感情や慾望を押えつけることを自制と言い・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・兄の所蔵の「感情装飾」という川端康成氏の短篇集の扉には、夢川利一様、著者、と毛筆で書かれて在って、それは兄が、伊豆かどこかの温泉宿で川端さんと知り合いになり、そのとき川端さんから戴いた本だ、ということになっていたのですが、いま思えば、これも・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・ さてこうなった所で、ポルジイはこれまで自分の身に覚えのない感情を発見した。それは妬である。ドリスの噂に上ぼる人が皆妬ましい。ドリスの逢ったと云う人が皆妬ましい。 それに別荘は夏住まいに出来ているのだから、余り気持ちが好くなくなった・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・倦怠、疲労、絶望に近い感情が鉛のごとく重苦しく全身を圧した。思い出が皆片々で、電光のように早いかと思うと牛の喘歩のように遅い。間断なしに胸が騒ぐ。 重い、けだるい脚が一種の圧迫を受けて疼痛を感じてきたのは、かれみずからにもよくわかった。・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・要するにこの演説会は純粋な悪感情の表現に終ってしまった。気の永いアインシュタインもかなり不愉快を感じたと見えて、急にベルリンを去ると云い出した。するとベルリン大学に居る屈指の諸大家は、一方アインシュタインをなだめると同時に、連名で新聞へ弁明・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・もちろん年齢にも相当の距離があったとおりに、感情も兄というよりか父といった方が適切なほど、私はこの兄にとって我儘な一箇の驕慢児であることを許されていた。そして母の生家を継ぐのが適当と認められていた私は、どうかすると、兄の後を継ぐべき運命をも・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・それで、そのつぎにくる瞬間をおそれて三吉が、小野の腕をささえてたちあがると、「なにをいうか、労働者の感情が、きさまらにわかると思うとるかッ」 すごい顔色になって、肩ごしに灰皿をつかんでなげようとする。津田と二人で、それを止めて外へで・・・ 徳永直 「白い道」
・・・南阿弗利加の黒奴は獣の如く口を開いて哄笑する事を知っているが、声もなく言葉にも出さぬ美しい微笑によって、いうにいわれぬ複雑な内心の感情を表白する術を知らないそうである。健全なる某帝国の法律が恋愛と婦人に関する一切の芸術をポルノグラフィイと見・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・同じ平面に立って、同じ程度の感情に支配される以上は小供が泣くたびに親も泣かねばならぬ。普通の小説家はこれである。彼らは隣り近所の人間を自己と同程度のものと見做して、擦ったもんだの社会に吾自身も擦ったり揉んだりして、あくまでも、その社会の一員・・・ 夏目漱石 「写生文」
・・・情濃やかなる君にしてこの子を失われた時の感情はいかがであったろう。亡き我児の可愛いというのは何の理由もない、ただわけもなく可愛いのである、甘いものは甘い、辛いものは辛いというの外にない。これまでにして亡くしたのは惜しかろうといって、悔んでく・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
出典:青空文庫