・・・ 老女は紅茶の盆を擡げながら、子供を慰めるようにこう云った。それを聞くと房子の頬には、始めて微笑らしい影がさした。「それこそ御隣の坊ちゃんが、おいたをなすったのに違いないわ。そんな事にびっくりするようじゃ、爺やもやっぱり臆病なのね。・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ しかし彼を慰めるものはまだ全然ない訣ではなかった。それは叔父さんの娘に対する、極めて純粋な恋愛だった。彼は彼の恋愛を僕にも一度も話したことはなかった。が、ある日の午後、――ある花曇りに曇った午後、僕は突然彼の口から彼の恋愛を打ち明けら・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・ 問慰めるとようよう此方を向いて、「親方。」「おお、」「起きましょうか。」「何、起きる。」「起きられますよ。」「占めたな! お前じっとしてる方が可いけれど、ちっとも構わねえけれど、起られるか、遣ってみろ一番、そう・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ としみじみ労って問い慰める、真心は通ったと見えまして、少し枕を寄せるようにして、小宮山の方を向いて、お雪は溜息を吐きましたが、「貴方は東京のお方でございますってね。」「うむ、東京だ、これでも江戸ッ児だよ。」「あの、そう伺い・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・今の自分はただただ自分を悔い、自分を痛め、自分を損じ苦しめるのが、いくらか自分を慰めるのである。今の自分には、哲学や宗教やはことごとく余裕のある人どもの慰み物としか思えない。自分もいままではどうかすると、哲学とか宗教とかいって、自分を欺き人・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・僕だっていっそ気違いになってしまったらと思った位だから、母を慰めるほどの気力はない。そうこうしている内にようやく母も少し落着いてきて、また話し出した。「政夫や、聞いてくれ。私はもう自分の悪党にあきれてしまった。何だってあんな非度いことを・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・より二十何年前にはイクラ文人が努力しても、文人としての収入は智力上遥に劣ってる労働階級にすら及ばないゆえ、他の生活の道を求めて文学を片商売とするか、或は初めから社会上の位置を度外して浮世を茶にして自ら慰めるより外仕方が無かったのである。・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・ すると、りこうそうな、目のぱっちりした小田は、吉雄を慰めるように、「君、もう飲んでしまったらしかたがない。そして、いま時分は、お湯は、こんなに寒いんだもの、水になっているよ。帰ってもしかたがないだろう。」といいました。 吉雄は・・・ 小川未明 「ある日の先生と子供」
・・・そして、自分を慰める、もっとも楽しいものは、まったくこの世界に笛よりほかにないと思ったのであります。 夏休みになったある日のことでありました。彼は麓の森の中に入って、またいつもの木の根に腰をかけて心ゆくばかり笛を吹き鳴らそうと思い、家を・・・ 小川未明 「どこで笛吹く」
・・・ そやから、お習字やお花をして、慰めるより仕方あれしません。ところが、あの人はお習字やお花の趣味はちょっともあれしませんの」「お茶は成さるんですか」「恥かしいですけど、お茶はあんまりしてませんの。是非教わろうと思てるんですけど。――・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫