・・・ と呼ぶ子供を見つけて、高瀬は自分の家の前の垣根のあたりで鞠子と一緒に成った。「鞠ちゃん、吾家へ行こう」 と慰撫めるように言いながら、高瀬は子供を連れて入口の庭へ入った。そこには畠をする鍬などが隅の方に置いてある。お島は上り框の・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
哀愁の詩人ミュッセが小曲の中に、青春の希望元気と共に銷磨し尽した時この憂悶を慰撫するもの音楽と美姫との外はない。曾てわかき日に一たび聴いたことのある幽婉なる歌曲に重ねて耳を傾ける時ほどうれしいものはない、と云うような意を述・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・ 彼の青年時代から引続いた精神的緊張の疲労が、深い休安、慰撫を求めて居た時、ああ云う消極的の愛が、あれ程積極の力を出して、彼に働きかけたのか。 芸術家の緊張、その弛緩の深さを知って居る自分は、大きい引潮の力を感じられる。 恋愛に・・・ 宮本百合子 「有島武郎の死によせて」
・・・ さほ子の声が次第に怪しく鼻にかかり、口先の慰撫が困難になって来ると、彼は、そろそろ自分の所業を後悔し出した。「いや全く、いくらはいはい云おうとも、いないには増しに違いなかったろう。葉書で呼びかえすかな。然し、又、あれに攻められるの・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・然し私自身ではない――つまり、それによって、私が慰撫され、啓発され、人間らしい豊富な感情の一面を感得するものでありながら、自身の裡には乏しくほか生来持合わせない何ものかを、貴女の性格には豊饒に賦与されておられるということなのでございます。・・・ 宮本百合子 「野上彌生子様へ」
・・・デクレスは最後に席を蹴って立ち上ると、慰撫する傍のネー将軍に向って云った。「陛下は気が狂った。陛下は全フランスを殺すであろう。万事終った。ネー将軍よ、さらばである」 ナポレオンはデクレスが帰ると、忿懣の色を表してひとり自分の寝室へ戻・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫