・・・己はむしろ、時にはあの女に憎しみさえも感じている。殊に万事が完ってから、泣き伏しているあの女を、無理に抱き起した時などは、袈裟は破廉恥の己よりも、より破廉恥な女に見えた。乱れた髪のかかりと云い、汗ばんだ顔の化粧と云い、一つとしてあの女の心と・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・あげた手が自ら垂れ、心頭にあった憎しみが自ら消えると、彼は、子供を抱いたまま、思わず往来に跪いて、爪を剥がしているクリストの足に、恐る恐る唇をふれようとした。が、もう遅い。クリストは、兵卒たちに追い立てられて、すでに五六歩彼の戸口を離れてい・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・事によると、李が何にでも持っている、漠然とした反抗的な心もちは、この無意識の憎しみが、原因になっているのかも知れない。 しかし、そうは云うものの、李も、すべての東洋人のように、運命の前には、比較的屈従を意としていない。風雪の一日を、客舎・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・林右衛門は、そこに、また消し難い憎しみの色をも、読んだのである。 その中に、主従の間に纏綿する感情は、林右衛門の重ねる苦諫に従って、いつとなく荒んで来た。と云うのは、独り修理が林右衛門を憎むようになったと云うばかりではない。林右衛門の心・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・それはちょっとした驚きと一しょに何か本能的な憎しみを閃かせている表情です。けれどもこの奥さんはすぐにもの静かに返事をしました。「ええ、M子もそんなことを申しておりました。」 僕は僕の部屋へ帰って来ると、また縁先の手すりにつかまり、松・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・やはり冷たい蔑みの底に、憎しみの色を見せているのです。恥しさ、悲しさ、腹立たしさ、――その時のわたしの心の中は、何と云えば好いかわかりません。わたしはよろよろ立ち上りながら、夫の側へ近寄りました。「あなた。もうこうなった上は、あなたと御・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・我々が懐く凡ゆる感情、例えば怒り、憎しみ、または愛にもせよ、凡ての感激、冒険といったようなものは、人生及び自然から生起してくる刺戟である。この人生及び自然の存在を措いて、現実はない筈である。それであるから現実に徹することは、自己の生活に徹す・・・ 小川未明 「囚われたる現文壇」
・・・身勝手に気がつき、ただこっちばかりが悪いのではないのが確信せられて来るのだが、いちど言い負けたくせに、またしつこく戦闘開始するのも陰惨だし、それに私には言い争いは殴り合いと同じくらいにいつまでも不快な憎しみとして残るので、怒りにふるえながら・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・あの男を撃つより先に、やはりこの女と、私は憎しみをもって勝敗を決しよう。あの男が此所へ来ているか、どうか、私は知らない。見えないようだ。どうでもよい。いまは目前の、このあさはかな、取乱した下等な雌馬だけが問題だ。」二人の女は黙ってせっせと歩・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・私は永遠に、人の憎しみを買うだろう。けれども、この純粋の愛の貪慾のまえには、どんな刑罰も、どんな地獄の業火も問題でない。私は私の生き方を生き抜く。身震いするほどに固く決意しました。私は、ひそかによき折を、うかがっていたのであります。いよいよ・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
出典:青空文庫