・・・操を破られながら、その上にも卑められていると云う事が、丁度癩を病んだ犬のように、憎まれながらも虐まれていると云う事が、何よりも私には苦しかった。そうしてそれから私は一体何をしていたのであろう。今になって考えると、それも遠い昔の記憶のように朧・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・妻はまた何という事なしに良人が憎まれてならなかった。妻は馬力の傍にうずくまり、仁右衛門はあてもなく唾を吐き散らしながら小屋の前を行ったり帰ったりした。よその農家でこの凶事があったら少くとも隣近所から二、三人の者が寄り合って、買って出した酒で・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・そして、人間に見つけられると憎まれ、また追われました。ちょうどそのことは里にいたときも同じことです。むしろかえって、都のほうがいっそうひどいように思われました。 からすは、はとの仲間入りすることは断念しましたが、都の空は煙でいつも濁って・・・ 小川未明 「馬を殺したからす」
・・・ 同級生に憎まれながらやがて四年生の冬、京都高等学校の入学試験を受けて、苦もなく合格した。憎まれていただけの自尊心の満足はあった。けれども、高等学校へはいって将来どうしようという目的もなかった。寄宿舎へはいった晩、先輩に連れられて、・・・ 織田作之助 「雨」
・・・治まる聖代のありがたさに、これぞというしくじりもせず、長わずらいにもかからず、長官にも下僚にも憎まれもいやがられもせず勤め上げて来たのだ。もはやこうなれば、わしなどはいわゆる聖代の逸民だ。恩給だけでともかくも暮らせるなら、それをありがたく頂・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・(私は、あなたに、いっそ思われていないほうが、あなたにきらわれ、憎まれていたほうが、かえって気持がさっぱりしてたすかるのです。私の事をそれほど思って下さりながら、他のひとを抱きしめているあなたの姿が、私を地獄につき落してしまうのです。・・・ 太宰治 「おさん」
・・・どのように人から憎まれてもいい。一日も早くあの人を殺してあげなければならぬと、私は、いよいよ此のつらい決心を固めるだけでありました。群集は、刻一刻とその数を増し、あの人の通る道々に、赤、青、黄、色とりどりの彼等の着物をほうり投げ、あるいは棕・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・あたしたちは、きっと誰かに憎まれています。あたしたちは、ひどくいけない間違いをして来たのではないでしょうか。」「そんな事は無い。そんな事は無い。」と王子は病床の枕もとを、うろうろ歩き廻って、矢鱈に反対しましたが、内心は、途方にくれていた・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・あの時の事を今から考えてみると、あるいは自分の生涯の中で最も幸福な時だったかも知れぬと思う。憎まれ児世に蔓ると云う諺の裏を云えば、身体が丈夫で、智恵があって、金があって、世間を闊歩するために生れたような人は、友情の籠った林檎をかじって笑いな・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・そういう点で彼女は多くの人からはむしろはばかられあるいは憎まれたようである。たださすがに女であるだけに自分自身の内部を直視する事はできなかったらしい。 ある時ある高い階級の婦人が衆人環視の中で人力車を降りる一瞬時の観察から、その人の皮膚・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
出典:青空文庫