・・・垂死の母を見て来た癖に、もう内心ははしゃいでいる彼自身の軽薄を憎みながら、……… 六 それでも店の二階の蒲団に、慎太郎が体を横たえたのは、その夜の十二時近くだった。彼は叔母の言葉通り、実際旅疲れを感じていた。・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・あるいは、もしそれまでの己があの女を愛していなかったとしたら、あの日から己の心には新しい憎みが生じたと云ってもまた差支えない。そうして、ああ、今夜己はその己が愛していない女のために、己が憎んでいない男を殺そうと云うのではないか! それも・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・ 保吉は次第に遠ざかる彼等の声を憎み憎み、いつかまた彼の足もとへ下りた無数の鳩にも目をやらずに、永い間啜り泣きをやめなかった。 保吉は爾来この「お母さん」を全然川島の発明したうそとばかり信じていた。ところがちょうど三年以前、上海へ上・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・彼は、愛も憎みも、乃至また性欲も忘れて、この象牙の山のような、巨大な乳房を見守った。そうして、驚嘆の余り、寝床の汗臭い匂も忘れたのか、いつまでも凝固まったように動かなかった。――楊は、虱になって始めて、細君の肉体の美しさを、如実に観ずる事が・・・ 芥川竜之介 「女体」
・・・やはり愛し合う為に憎み合いながら。……が、僕はもう一度戦闘的精神を呼び起し、ウイスキイの酔いを感じたまま、前のホテルへ帰ることにした。 僕は又机に向い、「メリメエの書簡集」を読みつづけた。それは又いつの間にか僕に生活力を与えていた。しか・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・とよく出来る大きな子が馬鹿にするような憎みきったような声で言って、動くまいとする僕をみんなで寄ってたかって二階に引張って行こうとしました。僕は出来るだけ行くまいとしたけれどもとうとう力まかせに引きずられて階子段を登らせられてしまいました。そ・・・ 有島武郎 「一房の葡萄」
・・・富の市を憎みて殺さむと思うことなかれというなり。ともすれば自殺せむと思うことなかれというなり。詮ずれば秀を忘れよというなり。その事をば、母上の御名にかけて誓えよと、常にミリヤアドのいえるなりき。 予は黙してうつむきぬ。「何もね、いま・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・ 妻は跡に残った新芸者――色は白いが、お多福――からその可哀そうな身の上ばなしを聴き、吉弥に対する憎みの反動として、その哀れな境遇に同情を寄せた。東京からわざわざやって来て、主人には気に入りそうな様子が見えないのであった。 この女か・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 私一個の考から云えば、人を愛するという事も、憎むという事も同じである。憎み切ってしまう事が出来れば、そこに何等かこの人生に対して強い執着のある事を意味する。残忍という事もどれ程人間というものが残忍であり得るか、残忍の限りを盟した時、眼・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
それは不思議な話であります。 あるところに、よく生徒をしかる教師がありました。また、ひじょうに物覚えの悪い生徒がありました。教師はその子供をたいへん憎みました。「こんなによく教えてやるのに、どうしてそれが覚えられないのか。」と・・・ 小川未明 「教師と子供」
出典:青空文庫