・・・これは、仇討の真似事を致すほど、義に勇みやすい江戸の事と申し、且はかねがね御一同の御憤りもある事と申し、さような輩を斬ってすてるものが出ないとも、限りませんな。」 伝右衛門は、他人事とは思われないような容子で、昂然とこう云い放った。この・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・ やっと停車場の外へ出た彼は彼自身の愚に憤りを感じた。なぜまたお時儀などをしてしまったのであろう? あのお時儀は全然反射的である。ぴかりと稲妻の光る途端に瞬きをするのも同じことである。すると意志の自由にはならない。意思の自由にならない・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・彼れは憤りにぶるぶる震えていた。生憎女の来ようがおそかった。怒った彼れには我慢が出来きらなかった。女の小屋に荒れこむ勢で立上ると彼れは白昼大道を行くような足どりで、藪道をぐんぐん歩いて行った。ふとある疎藪の所で彼れは野獣の敏感さを以て物のけ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・平生の人間に対する憤りと恨みとが、消えたために、自ら危んだのだ。どの子もどの子も手を出して摩るのだ。摩られる度に、犬はびくびくした。この犬のためにはまだ摩られるのが、打たれるように苦痛なのであった。 次第にクサカの心持が優しくなった。「・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 代官婆の憤り方をお察しなさりとう存じます。学士先生は電報で呼ばれました。何と宥めても承知をしません。ぜひとも姦通の訴訟を起こせ。いや、恥も外聞もない、代官といえば帯刀じゃ。武士たるものは、不義ものを成敗するはかえって名誉じゃ、とこうま・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ 壮佼はますます憤りひとしお憐れみて、「なんという木念人だろう、因業な寒鴉め、といったところで仕方もないかい。ときに爺さん、手間は取らさねえからそこいらまでいっしょに歩びねえ。股火鉢で五合とやらかそう。ナニ遠慮しなさんな、ちと相談も・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ 翌晩も、また翌晩も、連夜の事できっと時刻を違えず、その緑青で鋳出したような、蒼い女が遣って参り、例の孤家へ連れ出すのだそうでありますが、口頭ばかりで思い切らない、不埒な奴、引摺りな阿魔めと、果は憤りを発して打ち打擲を続けるのだそうでご・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・みんなは、年寄りの物知りにあざむかれたことを憤りました。「ああ、俺たちはばかだった。あの老人が、自分でいきもしない『幸福の島』などというものを知っているはずがなかったのだ。あの老人を、だれがいったい物知りなどといったのだ。そして、あの老・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・本当に真の愛と真の反抗と、真の憤りというものが、キリストだけにあって、またキリストと共に死んでしまったものかも分らない。皆誰でもがキリストの通った道を歩き得るものとは限らないから。無意味な形の上だけでは歩いていても、その精神をまで継ぎ得たと・・・ 小川未明 「反キリスト教運動」
・・・ 愛を知り、涙を知り、人間らしい感情に生きる民衆こそ、暴虐に対して、憤り、反抗する理由と実力とを有するのです。またこの霊魂をもって書かれた大芸術こそ、人生のための芸術であり、我等の高遠な目的に向って進むに当って、鼓舞して止まない真の芸術・・・ 小川未明 「民衆芸術の精神」
出典:青空文庫