・・・ていたところ、この上もない良縁と思う今度の縁談につき、意外にもおとよが強固に剛情な態度を示し、それも省作との関係によると見てとった父は、自分の希望と自分の仕合せとが、根柢より破壊せられたごとく、落胆と憤懣と慚愧と一時に胸に湧き返った。 ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・私は笹川の得意さを想うと同時に、そしてまた昨日からの彼に対する憤懣の情を和らげることはできないながらに、どうかしてH先生のような立派な方に、彼の例の作家風々主義なぞという気持から、うっかりして失礼な生意気を見せてくれなければいいがと、祈らず・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・しかしその憤懣が「小母さん」のどこへ向けられるべきだろう。彼が今日にも出てゆくと言っても彼女が一言の不平も唱えないことはわかりきったことであった。それでは何故出てゆかないのか。生島はその年の春ある大学を出てまだ就職する口がなく、国へは奔走中・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ので吉田がこんなになってからは喧ましく言って病室へは入れない工夫をしていたのであるが、その猫がどこから這入って来たのかふいにニャアといういつもの鳴声とともに部屋へ這入って来たときには吉田は一時に不安と憤懣の念に襲われざるを得なかった。吉田は・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・主は家隷を疑い、郎党は主を信ぜぬ今の世に対しての憤懣と悲痛との慨歎である。此家の主人はかく云われて、全然意表外のことを聞かされ、へどもどするより外は無かった。「しかし、此処の器量よしめの。かほどの器量までにおのれを迫上げて居おるのも、お・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・心の中には反抗的な忿懣のような思想が充ちている。よしや誰と連になろうが、その人に何物をも分けてやることは出来ない。ただ一般に苦しい押え付けられているような感じ、職業のないために生じて来たこの感じより外には、人に分けてやるような物を持っていな・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・こそ風声鶴唳にも心を驚かし、外の足音にもいちいち肝を冷やして、何かしら自分がひどい大罪でも犯しているような気持になり、世間の誰もかれもみんな自分を恨みに恨んでいるような言うべからざる恐怖と不安と絶望と忿懣と怨嗟と祈りと、実に複雑な心境で部屋・・・ 太宰治 「禁酒の心」
・・・この家の人、全部に忿懣を感じた。無神経だと思った。「たべなさいよ。」私は、しつこく、こだわった。「客の前でたべるのが恥ずかしいのでしたら、僕は帰ってもいいのです。あとで皆で、たべて下さい。もったいないよ。」「いただきます。」女は、私・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・家主からは、さらに二十日待て、と手紙が来て、私のごちゃごちゃの忿懣が、たちまち手近のポチに結びついて、こいつあるがために、このように諸事円滑にすすまないのだ、と何もかも悪いことは皆、ポチのせいみたいに考えられ、奇妙にポチを呪咀し、ある夜、私・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・自分の見る点では、内匠頭はいよいよ最後の瞬間まではもっとずっと焦躁と憤懣とを抑制してもらいたい。そうして最後の刹那の衝動的な変化をもっと分析して段階的加速的に映写したい。それから上野が斬られて犬のようにころがるだけでなく、もう少し恐怖と狼狽・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
出典:青空文庫