・・・ あってみない前の思いほどでなく、お光さんもただ懇切な身内の人で予も平気なればお光さんも平気であったに、ただ一日お光さんは夫の許しを得て、予らと磯に遊んだ。朝の天気はまんまるな天際の四方に白雲を静めて、洞のごとき蒼空はあたかも予ら四人を・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・老人、君の如き異才を見るの明がなくして意外の失礼をしたと心から深く詫びつつ、さてこの傑作をお世話したいが出版先に御希望があるかと懇切に談合して、直ぐその足で金港堂へ原稿を持って来た。「イヤ、実に面白い作で、真に奇想天来です。」と美妙も心・・・ 内田魯庵 「露伴の出世咄」
・・・しかも、このたびの御手簡には、小生ごときにまで誠実懇切の御忠告、あまり文壇通をふりまわさぬよう、との御言葉。何だか、どしんとたたきのめされた気持で、その日は自転車をのり廻しながら一日中考えさせられました。というのは、実を言えば貴下と吉田さん・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・人の子の愛慾独占の汚い地獄絵、はっきり不正の心ゆえ、きょうよりのち、私、一粒の真珠をもおろそかに与えず、豚さん、これは真珠だよ、石ころや屋根の瓦とは違うのだよ、と懇切ていねい、理解させずば止まぬ工合いの、けちな啓蒙、指導の態度、もとより苦し・・・ 太宰治 「創生記」
・・・などと私は汗を拭きながら、しきりに病状を訴え、女医の手当のわずかでも懇切ならん事を策した。 女医は気軽に、「なに、すぐ眼があくでしょう。」「そうでしょうか。」「眼球は何ともなっていませんからね、まあ、もう四、五日も通ったら、・・・ 太宰治 「薄明」
・・・ 学生の卒業論文などについても指導甚だ懇切であった。初めにはいきなり酷く叱られて慄え上がるが、教えを受けて引下がるときは皆嬉々として引下がったという話である。卒業後の就職などについても労を惜しまず面倒を見た。また、すべての人の長所を認識・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
・・・だらけのだらしのない弟子たちに対して、真の慈父のような寛容をもって臨み、そうしてどこまでも懇切にめんどうを見てやるのに少しも骨身を惜しまれなかったように見える。自分がだらしがなくて、人には正確を要求する十人並みの人間のすることとは全く反対で・・・ 寺田寅彦 「田丸先生の追憶」
・・・ その親にたのまれて一二回作品を見てやったというだけの若年の娘にも、先生はお目にかかるかぎり懇切丁寧で、ふさわしい親切をもって対して下すっていた。しかしながら、その豊富な経験のなかでは、自身創立された文芸協会で、抱月と松井須磨子の二つの・・・ 宮本百合子 「時代と人々」
・・・ 自身女性である中島湘煙が、なぜ女はみな魔がさしているような非条理におかれているかというその原因にまでふれ、沈潜して理解してゆこうとせず、かえって男の福沢諭吉が女のために懇切、現実的であったという事実は私たちに何を教えるだろう。それぞれ・・・ 宮本百合子 「女性の歴史の七十四年」
・・・けれども、毛沢東が中国民衆の人間らしい生活の確立のために、あれほど懇切に、あれほど初歩の問題から文芸の課題について語っているとき、誰がそれにたいして反感を抱きえよう。とくに日本の読者のある種の人々は中共にたいして同情的であることも興味ふかい・・・ 宮本百合子 「政治と作家の現実」
出典:青空文庫