・・・「けれども、たまに行けばお互いに懐かしいが、大阪の家だって、長くいればおもしろい日ばかりは続かないだろう」「だから私も自分の小遣ぐらいもってゆかなければ。子供を連れだしたって、いちいち嫁さんから小遣もらうのは厭やし、お寺詣りするにし・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・だがそれだけまた友が恋しく、稀れに懐かしい友人と逢った時など、恋人のように嬉しく離れがたい。「常に孤独で居る人間は、稀れに逢う友人との会合を、さながら宴会のように嬉しがる」とニイチェが云ってるのは真理である。つまりよく考えて見れば、僕も決し・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・大きくなってこんな土曜の夜を思い出したらどんなに懐かしいでしょうね。私はひどく感興を覚え、こっち側からのぞいて「極楽極楽」とほめてやりました。 今日は色々嬉しいのよ。天気がよすぎて私の眼はまくまくで、一入ものがみえないけれど、起きたらお・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・一生のうちに、また故郷の草原を見、丸木小屋に坐って温まって来る壁の匂いをかぐ懐かしい冬の夜にめぐり合うことも無いであろう。それでも、生活は続いている。自分達の死んだ後、けれども、国籍をも持たぬ子孫は、どこで、どうやって生きるであろうか。彼等・・・ 宮本百合子 「街」
・・・自分の言葉を、此の懐かしい碁盤目の紙に書き付けて居る。 九月に家を出て以来、私の心の周囲に見えない壁を築いて、私の知って居る形容詞では充分に現わす事の出来ない程、微妙な、力強いぎごちなさを与えて居た感じは、今、まるで夢よりも淡く消えて仕・・・ 宮本百合子 「無題」
・・・ 書かれた感想の中に母の性格が全幅的に反映している事はもとよりであるが、子として更に懐かしい一人の婦人としての母の或る力は、雑多な困難と闘いながら一つの旅日記にせよ、よく最後まで書きとおした一事にこもっていると思われるのである。母は楽ん・・・ 宮本百合子 「葭の影にそえて」
・・・「わたしもこれから台州へ往くものであってみれば、ことさらお懐かしい。ついでだから伺いたいが、台州には逢いに往ってためになるような、えらい人はおられませんかな」「さようでございます。国清寺に拾得と申すものがおります。実は普賢でございます。・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
・・・ても耳の底に残るように懐かしい声、目の奥に止まるほどに眤しい顔をば「さようならば」の一言で聞き捨て、見捨て、さて陣鉦や太鼓に急き立てられて修羅の街へ出かければ、山奥の青苔が褥となッたり、河岸の小砂利が襖となッたり、その内に……敵が……そら、・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫