・・・また、それがないにしても、その時にはもう私も、いつか子爵の懐古的な詠歎に釣りこまれて、出来るなら今にも子爵と二人で、過去の霧の中に隠れている「一等煉瓦」の繁華な市街へ、馬車を駆りたいとさえ思っていた。そこで私は頭を下げながら、喜んで「どうぞ・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
懐古園の城門に近く、桑畠の石垣の側で、桜井先生は正木大尉に逢った。二人は塾の方で毎朝合せている顔を合せた。 大尉は塾の小使に雇ってある男を尋ね顔に、「音はどうしましたろう」「中棚の方でしょうよ」桜井先生が答えた・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・日によっては速記者も、おのずから襟を正したくなるほど峻厳な時局談、あるいは滋味掬すべき人生論、ちょっと笑わせる懐古談、または諷刺、さすがにただならぬ気質の片鱗を見せる事もあるのだが、きょうの話はまるで、どうもいけない。一つとして教えられると・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・という問を連発して論敵をなやましたものだ、という懐古談なのだ。久保万か、小島氏か、一切忘れてしまったけれども、とにかく、ひどくのんびり語っていた。これには、わたくしたち、ほとほと閉口いたしましたもので、というような口調であった。いずくんぞ知・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・と歌った懐古の情の悲しさに比較すれば、自分が芝の霊廟に対して傾注する感激の底には、かえって一層の痛切一層の悲惨が潜んでいなければならぬはずだと思うのである。 ポンペイの古都は火山の灰の下にもなお昔のままなる姿を保存していた実例がある。仏・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・ 近頃のけばけばしさ、というと普通にはすぐ懐古風に配色だの縞だのが思い浮べられているけれども、そういう逆もどりも実際には不可能だと思う。 しぶい色、縞は、昔の日本の室内で近い目の前で見られるにふさわしいのだが、今日の東京の建築物では・・・ 宮本百合子 「働くために」
・・・晩年の母は、懐古的になるとともに祖父西村茂樹の現代にあっては保守というべき側面ばかりを影響された。 母の一生は女ながらいかにも活々と、多彩に、明治八年頃から今日に至る略六十年の間に日本の中流の経験した経済的な条件、精神的な推移の歴史・・・ 宮本百合子 「母」
・・・その社としては懐古的な意味をもった催しであったが、主幹に当る人はそのテーブル・スピーチで今日社が何十人かの人々を養って行くことが出来るのも偏に前任者某氏の功績である云々と述べた。今日に当って某誌が日本の文化を擁護しなければならぬ義務の増大し・・・ 宮本百合子 「微妙な人間的交錯」
・・・後者は、前方への進展の見とおしとその社会的なよりどころを見失った文学の懐古的態度として現れたのであったが、時代の急激なテムポは、微温的な懐古調を、昨今は、花見る人の長刀的こわもてのものにし、古典文学で今日の文学を黙せしめようとするが如き不自・・・ 宮本百合子 「文学上の復古的提唱に対して」
・・・ 牧歌的な懐古の趣ばかりがここに感じられないところに、今日の現実の性質があるのだと思う。〔一九四〇年三月〕 宮本百合子 「昔を今に」
出典:青空文庫