・・・それは自分のためでもなければ親のためでもないのだ。懐手をして、彼等を酷使していた者どものためだ。それは、××××なのだ。 敵のために、彼等は、只働きをしてやっているばかりだ。 吉永は、胸が腐りそうな気がした。息づまりそうだった。極刑・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・それは全く、内地で懐手をしている資本家や地元の手先として使われているのだ。――と、反抗的な熱情が涌き上って来るのを止めることが出来なかった。それは彼ばかりではなかった、彼と同じ不服と反抗を抱いている兵卒は多かった。彼等は、ある時は、逃げて行・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・で、鉄道や汽船の勢力が如何なる海陬山村にも文明の威光を伝える為に、旅客は何の苦なしに懐手で家を飛出して、そして鼻歌で帰って来られるようになりました。其の代りに、つい二三十年前のような詩的の旅行は自然と無くなったと申して宜しい、イヤ仕様といっ・・・ 幸田露伴 「旅行の今昔」
・・・あの腹掛のドンブリに、古風な財布をいれて、こう懐手して歩くと、いっぱしの、やくざに見えます。角帯も買いました。締め上げると、きゅっと鳴る博多の帯です。唐桟の単衣を一まい呉服屋さんにたのんで、こしらえてもらいました。鳶の者だか、ばくち打ちだか・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・普段着のまま帽子もかぶらず東京から二百里はなれた生家の玄関へ懐手して静かにはいるのである。両親の居間の襖をするするあけて、敷居のうえに佇立すると、虫眼鏡で新聞の政治面を低く音読している父も、そのかたわらで裁縫をしている母も、顔つきを変えて立・・・ 太宰治 「玩具」
・・・涙はウソだ、と心の中で言いながら懐手して部屋をぐるぐる歩きまわっているのだが、いまにも、嗚咽が出そうになるのだ。私は実に閉口した。煙草を吸ったり、鼻をかんだり、さまざま工夫して頑張って、とうとう私は一滴の涙も眼の外にこぼれ落さなかった。・・・ 太宰治 「故郷」
・・・ 私はその日も、私の見事な一篇の醜作を、駅の前のポストに投函し、急に生きている事がいやになり、懐手して首をうなだれ、足もとの石ころを蹴ころがし蹴ころがしして歩いた。まっすぐに家へ帰る気力も無い。私の家は、この三鷹駅から、三曲りも四曲りも・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・ 古谷君は、ひどく傲然たるものである。 私も向っ腹が立っていたので、黙ってぐいと飲んだ。私の記憶する限りに於ては、これが私の生れてはじめての、ひや酒を飲んだ経験であった。 古谷君は懐手して、私の飲むのをじろじろ見て、そうして私の・・・ 太宰治 「酒の追憶」
・・・私は乳母が衣服を着換えさせようとするのも聞かず、人々の声する方に馳け付けたが、上框に懐手して後向きに立って居られる母親の姿を見ると、私は何がなしに悲しい、嬉しい気がして、柔い其の袖にしがみつきながら泣いた。「泣蟲ッ、朝腹から何んだ。」と・・・ 永井荷風 「狐」
・・・道端に荷をおろしている食物売の灯を見つけ、汁粉、鍋焼饂飩に空腹をいやし、大福餅や焼芋に懐手をあたためながら、両国橋をわたるのは殆毎夜のことであった。しかしわたくしたち二人、二十一、二の男に十六、七の娘が更け渡る夜の寒さと寂しさとに、おのずか・・・ 永井荷風 「雪の日」
出典:青空文庫