・・・(右手扉の方へ行かんとする時、死あらわれ、徐に垂布を後にはねて戸口に立ちおる。ヴァイオリンは腰に下げ、弓を手に持ちいる。驚きてたじたじと下る主人を、死は徐まあ、何という気味の悪い事だろう。お前の絃の音はあれほど優しゅう聞えたのに、お前の姿を・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・そこで須利耶の奥さまは戸口にお立ちになりましたら童子はもう泣きやんで笑っていられましたとそんなことも申し伝えます。 またある時、須利耶さまは童子をつれて、馬市の中を通られましたら、一疋の仔馬が乳を呑んでおったと申します。黒い粗布を着た馬・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・ 涙をためて机の下に丸まって居ると、戸口の方に人声がし、一人の婦人が入って来た。まるで入口一杯になる程、縦にも横にも大きい人である。大変快活な顔付で、いかつい眼や口のまわりに微笑さえ浮べて居る。「あの娘は見つかりましたよ」と云う・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・ この時突然、店の庭先で太鼓がとどろいた、とんと物にかまわぬ人のほかは大方、跳り立って、戸口や窓のところに駆けて出た、口の中をもぐもぐさしたまま、手にナフキンを持ったままで。 役所の令丁がその太鼓を打ってしまったと思うと、キョトキョ・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・女房は戸口まで見送りに出て、「お前も男じゃ、お歴々の衆に負けぬようにおしなされい」と言った。 津崎の家では往生院を菩提所にしていたが、往生院は上のご由緒のあるお寺だというのではばかって、高琳寺を死所ときめたのである。五助が墓地にはいって・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・それから戸口の戸を叩いた。 戸が開いて、閾の上に小さい娘が出た。年は十六ぐらいである。 ツォウォツキイにはそれが自分の娘だということがすぐ分かった。「なんの御用ですか」と、娘は厳重な詞附きで問うた。 ツァウォツキイは左の手で・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ そして、家に着くと、戸口の処に身体の衰えた男の乞食が、一人彼に背を見せて蹲んでいた。「今日は忙しいのでのう、また来やれ。」 彼が柴を担いだまま中へ這入ろうとすると、「秋か?」と乞食は云った。 秋三は乞食から呼び捨てにさ・・・ 横光利一 「南北」
・・・ 己は直ぐにその明りを辿って、家の戸口に行って、少し動悸をさせながら、戸を叩いた。 内からは「どうぞ」と、落ち着いた声で答えた。 己は戸を開けたが、意外の感に打たれて、閾の上に足を留めた。 ランプの点けてある古卓に、エルリン・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・ 用心して戸口を出て跡を締めた。 それから、跡を追っ掛けて来るものでもあるように、燈の光のぼんやり差している廊下を、寐惚けた役人の前を横切って、急いで通って、出口に来た。 出口の大きな扉の所に来た。 そこを出て、夢中で、これ・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・そこで廊下から西洋風の戸口を通って書斎へはいると、そこは板の間で、もとは西洋風の家具が置いてあったのかもしれぬが、漱石は椅子とか卓子とか書き物机とかのような西洋家具を置かず、中央よりやや西寄りのところに絨毯を敷いて、そこに小さい紫檀の机を据・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫