・・・既に戸籍は、分けられて在る。しかも私の生まれて育った故郷の家も、いまは不仕合わせの底にある。もはや、私には人に恐縮しなければならぬような生得の特権が、何も無い。かえって、マイナスだけである。その自覚と、もう一つ。下宿の一室に、死ぬる気魄も失・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・うちの女房は、戸籍のほうでは、三十四歳という事になっていますが、それはこの世の仮の年齢で、実は、何百歳だかわからぬのです。ずっとずっと昔から、同じ若さを保って、この日本の移り変りを、黙って眺めていたというわけです。それがこの終戦後の、日本は・・・ 太宰治 「女神」
・・・おそらくこれらの店の人にとって、今頃石油ランプの事などを顧客に聞かれるのは、とうの昔に死んだ祖父の事を、戸籍調べの巡査に聞かれるような気でもする事だろう。 ある店屋の主人は、銀座の十一屋にでも行ったらあるかも居〔知〕れないと云って注意し・・・ 寺田寅彦 「石油ランプ」
・・・するとこれが案外親切な巡査で戸籍簿のようなものを引っくり返して小首を傾けながら見ておったが後を見かえって内に昼ねしていた今一人のを呼び起した。交代の時間が来たからと云うて序にこの人にも尋ねてくれたがこれも知らぬ。この巡査の少々横柄顔が癪にさ・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
・・・彼は、役場に用事があった時、戸籍係に、沢や婆さんの戸籍を調べて貰った。彼は三十四年目で始めて、彼女が有坂イサヲと云う姓名で、籍は二里近く離れた柳田村にあることを知った。 此那奇蹟的関心が沢や婆に払われるには原因があった。仙二の家の納屋を・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・帝大とよばれた時代でも学力と学資があれば、もちろん、士族、平民という戸籍上の差別が入学者の資格を左右するものではなかった。しかし、日本のあらゆる官僚機構と学界のすべての分野に植えこまれている学閥の威力は、帝大法科出身者と日大の法科出身者とを・・・ 宮本百合子 「新しいアカデミアを」
・・・まして私生子というような区別を戸籍の上にさえおかない様になってきている今日、子供はすべて社会の子供として生命を保証される権利があります。そして私どもにはその義務があります。婦人少年局ができて婦人と小さい人の全生活に関する調査や提案を政府に向・・・ 宮本百合子 「“生れた権利”をうばうな」
・・・何かとびっくりしたらお手紙と戸籍抄本とが入って居りました。安心したといっておよろこびでした。又あなたからのお手紙もついた由。今度のお手紙には、初めて「母より」と書いてあって、私は様々の感慨に打たれました。そして、又、島田へ行ってお手紙という・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・まず生き還ってから、戸籍の上に存在するという手続きを経てから選挙手続きも改めてとらなければならない。これらの人々の一票は投票箱に落ちる時人生のどんな響きを立てることだろう。ドストイェフスキイは、ロシアの革命運動に参加した理由で死刑を宣告され・・・ 宮本百合子 「青年の生きる道」
・・・ ――私、戸籍登記所で改名する! ワーニカは、マトリョーナの赤い頬っぺたと、そこへおちてる金髪を眺めた。 ――マクシムに私注意した、もう。でもあいつがそれをきかない訳知ってる? マトリョーナだからさ! 私が。 ワーニカは思わ・・・ 宮本百合子 「ワーニカとターニャ」
出典:青空文庫