・・・勿体なくありません限り、床の間か、戸袋の上へでもお据え申そうと思いますから、かたがた草双紙風俗にとお願い申したほどなんです。――本式ではありません。とうりてんのお姿では勿体ないと思うのですから。……お心安く願います。」「はい、一応は心得・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・――壁の外側に取りつけた戸袋に、二枚の戸を閉めると丁度いゝだけの隙があった。そこへ敷布団から例のものを出して、二寸ほどの隙間に手をつまらせないように、ものさしで押しこんだ。戸袋の奥へ突きあたるまで深く押しこんだ。「これで一と安心!」一瞬・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・ その日の夕方のことであった、南の戸袋を打つ小石の音がした。誰か屋外から投げ込んでよこした。「誰だ」 と高瀬は障子のところへ走って行って、濡縁の外へ出て見た。「人の家へ石など放り込みやがって――誰だ――悪戯も好い加減にしろ―・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・机の前に寝転んで、戸袋をはたく芭蕉の葉ずれを聞きながら、将に来らんとする浦の嵐の壮大を想うた。海は地の底から重く遠くうなって来る。 こう云う淋しい夜にはと帳場へ話しに行った。婆さんは長火鉢を前に三毛を膝へ乗せて居眠りをしている。辰さんは・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・ 八月になってから雨天や曇天がしばらく続いて涼み台も片隅の戸袋に立てかけられたままに幾日も経った。 ある朝新聞を見ていると、今年卒業した理学士K氏が流星の観測中に白鳥星座に新星を発見したという記事が出ていた。その日の夕方になると涼み・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・縁側へ出て見ると庭はもう半分陰になって、陰と日向の境を蟻がうろうろして出入りしている。このあいだ上田の家からもらって来たダーリアはどうしたものか少し芽を出しかけたままで大きくならぬ。戸袋の前に大きな広葉を伸ばした芭蕉の中の一株に・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・夢から醒めたような心持である。戸袋のすぐ横に、便所の窓の磨硝子から朧な光のさすのに眼をうつすと、痩せたやもりが一疋、雨に迷う蚊を吸うとてか、窓の片側に黒いくの字を画いていた。 その後田舎へ帰ってからも、再び東京に出た後も、つい一度もやも・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・「茶入れやお茶碗なんか、家にはずいぶんよいものもあったけれど、下の戸袋のなかへしまいこんでおいたものは、いつの間にかお客がみんな持っていってしもうて……」お絹はそんな話をしながら、「軸ものも何やら知らんけれど、いいものだそうだ。たぶ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 五月雨に四尺伸びたる女竹の、手水鉢の上に蔽い重なりて、余れる一二本は高く軒に逼れば、風誘うたびに戸袋をすって椽の上にもはらはらと所択ばず緑りを滴らす。「あすこに画がある」と葉巻の煙をぷっとそなたへ吹きやる。 床柱に懸けたる払子の先・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・母が突嗟に立って、早く雨戸をおしめ、抑えつけた緊張した声で云うなり、戸袋のところへ走って行った。私は、戸袋から母がくり出す雨戸を出来るだけ早く馳けて押した。母は台所の方へ行って何か指図をしていたが、そのときのは、となりの家の門の植込のところ・・・ 宮本百合子 「からたち」
出典:青空文庫