・・・神山は彼の方を見ずに、金格子で囲った本立てへ、大きな簿記帳を戻していた。「じゃ今向うからかかって来ましたぜ。お美津さんが奥へそう云いに行った筈です。」「何てかかって来たの?」「先生はただ今御出かけになったって云ってたようですが、・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・田代君は存外真面目な表情を浮べながら、ちょいとその麻利耶観音を卓子の上から取り上げたが、すぐにまた元の位置に戻して、「ええ、これは禍を転じて福とする代りに、福を転じて禍とする、縁起の悪い聖母だと云う事ですよ。」「まさか。」「とこ・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・を書棚へ戻し、今度は殆ど手当り次第に厚い本を一冊引きずり出した。しかしこの本も挿し画の一枚に僕等人間と変りのない、目鼻のある歯車ばかり並べていた。(それは或独逸僕はいつか憂鬱の中に反抗的精神の起るのを感じ、やぶれかぶれになった賭博狂のように・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ 彼がしかしすぐに顔を前に戻して、眼ざしている家の方を見やりながら歩みを早めたのはむろんのことだった。そしてそこから四、五間も来たかと思うころ、がたんとかけがねのはずれるような音を聞いたので、急ぎながらももう一度後を振り返って見た。しか・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・と忙しく張上げて念じながら、舳を輪なりに辷らして中流で逆に戻して、一息ぐいと入れると、小波を打乱す薄月に影あるものが近いて、やがて舷にすれすれになった。 飛下りて、胴の間に膝をついて、白髪天頭を左右に振ったが、突然水中へ手を入れると、朦・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・だからここまで下りて来て、草生の中を連戻してくれないか。またこの荒墓……」 と云いかけて、「その何だ。……上の寺の人だと、悪いんだが、まったく、これは荒れているね。卵塔場へ、深入りはしないからよかったけれど、今のを聞いては、足がすく・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・あえて目をつむってと言う、金剛神の草鞋が、彼奴の尻をたたき戻した事は言うまでもない。 夫人の壇に戻し参らせた時は、伏せたままでソと置いた。嬰児が、再び写真に戻ったかどうかは、疑うだけの勇気はなかったそうである。「いや、何といたし・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ 満蔵はほどよく米を臼に入れて俵は元の倉へ戻し、臼へ腰を掛けつつしばらく人の話を聞いているうち、調子はずれな声を出して、「きょうは省作さアにおごってもらうんだっけ。おらアたしかな証拠を見たんだ」 意外な満蔵の話に人々興がり一斉に・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ 三七日の夜、親族会議が開かれた席上、四国の田舎から来た軽部の父が、お君の身の振り方につき、お君の籍は金助のところへ戻し、豹一も金助の養子にしてもろたらどんなもんじゃけんと、渋い顔して意見を述べ、お君の意嚮を訊くと、「私でっか。私は・・・ 織田作之助 「雨」
・・・死んだやうになつてゐた数秒、しかし再び意識をとり戻した彼が、勇敢にも駈け出した途端に両手に煉瓦を持つて待ちぶせてゐた一人が、立てつづけに二個の煉瓦を投げつけ、ひるむところをまたもや背後から樫棒で頭部を強打したため、かの警官はつひにのめるやう・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
出典:青空文庫