・・・更けるも知らぬ夜々の長坐敷つい出そびれて帰りしが山村の若旦那と言えば温和しい方よと小春が顔に花散る容子を御参なれやと大吉が例の額に睨んで疾から吹っ込ませたる浅草市羽子板ねだらせたを胸三寸の道具に数え、戻り路は角の歌川へ軾を着けさせ俊雄が受け・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・その時、銀貨二つを風琴の上に載せた戻りがけに、私は次郎や三郎のほうを見て、半分串談の調子で、「天麩羅の立食なんか、ごめんだぜ。」「とうさん、そんな立食なんかするものか。そこは心得ているから安心しておいでよ。」と次郎は言った。 楽・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 別れを告げて、高瀬が戻りかける頃には、壮んな蛙の声が起った。大きな深い千曲川の谷間はその鳴声で満ち溢れて来た。飛騨境の方にある日本アルプスの連山にはまだ遠く白雪を望んだが、高瀬は一つ場処に長く立ってその眺望を楽もうともしなかった。不思・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・いくら、新宿の街を行きつ戻りつ歩いてみても、いいことは、ございませぬ。それは、もうきまって居ります。けれども幸福は、それをほのかに期待できるだけでも、それは幸福なのでございます。いまのこの世の中では、そう思わなければ、なりませぬ。老博士は、・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・と薔薇とを組合せた十円ちかくの大きな花束をこしらえさせ、それを抱えて花屋から出て、何だかもじもじしていましたので、私には兄の気持が全部わかり、身を躍らしてその花束をひったくり脱兎の如くいま来た道を駈け戻り喫茶店の扉かげに、ついと隠れて、あの・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・こんにゃくを売ることも忘れて、ドンドンいまきた道をあと戻りして逃げてしまう。 こんなとき、私が、「ああおれはこんにゃく屋だよ。それがどうしたんだい」 と言えればよかった。そしたら意地悪共も黙ってしまったにちがいない。ところが不可・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・三吉は橋の袂までいって、すぐあと戻りした。流れのはやさと一緒になって坂をのぼり、熊本城の石垣をめぐって、田甫に沿うた土堤うえの道路にでる。途中で流れはいくつにもくずれていって、そのへんで人影は少くなった。土堤の斜面はひかげがこくなり、花をつ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・不動様のお三日という午過ぎなぞ参詣戻りの人々が筑波根、繭玉、成田山の提灯、泥細工の住吉踊の人形なぞ、さまざまな玩具を手にさげたその中には根下りの銀杏返しや印半纏の頭なども交っていて、幾艘の早舟は櫓の音を揃え、碇泊した荷舟の間をば声を掛け合い・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・元へ戻りかけた話しも蚊遣火と共に吹き散らされてしもうた。話しかけた男は別に語りつづけようともせぬ。世の中はすべてこれだと疾うから知っている。「御夢の物語りは」とややありて女が聞く。男は傍らにある羊皮の表紙に朱で書名を入れた詩集をとりあげ・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・如何なる場合にも後戻りをすることなく前へ前へと走っている。 教育及び文芸とても、自然主義に弊害があるからとて、昔には戻らぬ。もし戻ってもそれは全く新なる形式内容を有するもので、浅薄なる観察者には昔時に戻りたる感じを起させるけれども、実は・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
出典:青空文庫