・・・労銀、利子、企業所得……「一家の管理。家風、主婦の心得、勤勉と節倹、交際、趣味、……」 たね子はがっかりして本を投げ出し、大きい樅の鏡台の前へ髪を結いに立って行った。が、洋食の食べかただけはどうしても気にかかってならなかった。……・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・これが私の、この六七年間の哀れな所得なのだ。その間に私は幾度、都会から郷里へ、郷里から都会へと、こうした惨めな気持で遁走し廻ったことだろう…… 私はまったく、粉砕された気持であった。私にも笹川の活きた生活ということの意味が、やや解りかけ・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・そしてその高慢税は所得税などと違って、政府へ納められて盗賊役人だかも知れない役人の月給などになるのではなく、直に骨董屋さんへ廻って世間に流通するのであるから、手取早く世間の融通を助けて、いくらか景気をよくしているのである。野暮でない、洒落切・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・織田信長より前は、禁庭御所得はどの位であったと思う。或記によればおよそ三千石ほどだったというのである。如何に簡素清冷に御暮しになったとて、三千石ではどうなるものでもない。ましてお公卿様などは、それはそれは甚だ窘乏に陥っておられたものだろう。・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・ 思いもよらない収入のある話と私が言ったのは、この大量生産の結果で、各著作者の所得をなるべく平均にするために、一割二分の約束の印税の中から社預かりの分を差し引いても、およそ二万円あまりの金が私の手にはいるはずであった。細い筆を力に四人の・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・数理に関する彼の所得は学校の教程などとは無関係に驚くべき速度で増大した。十五歳の時にはもう大学に入れるだけの実力があるという事を係りの教師が宣言した。 しかし中等学校を卒業しないうちに学校生活が一時中断するようになったというのは、彼の家・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・そしてすべての人心の所得をその真の源まで追跡する事が出来たら、この世界がいちばん多くの御蔭を蒙っているのは、最も独創力のある人々であった事を発見するだろう。またそういう人々がその生活の日ごとに、人類から彼等が負う負債を増しながら、同時に同胞・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・のだということは、この旗じるしを押し立てて進んで来た近代科学の収穫の豊富さを見ても明白である。科学はたよりない人間の官能から独立した「科学的客観的人間」の所得となって永遠の落ちつき所に安置されたようにも見える。 われわれ「生理的主観的人・・・ 寺田寅彦 「感覚と科学」
・・・こういう能力の獲得が一人の人間の精神的所得として、そう安直な無価値なものであろうとは思われないのである。 一般的に言って俳句で苦労した人の文章にはむだが少ないという傾向があるように見える。これは普通字句の簡潔とか用語の選択の妥当性による・・・ 寺田寅彦 「俳句の精神」
・・・もし現在の科学の所得は、すでに科学の究極的に獲得しうるすべての大部分であると考え、吾人の残務はただそこかしこの小さい穴を繕うに過ぎぬと考えればプランクの説はもっともと思われる。しかしそう考えるだけの確かな根拠があるかどうか自分には疑わしい。・・・ 寺田寅彦 「物理学と感覚」
出典:青空文庫