・・・そして手の甲を蟹の鋏のように赤く大きくふくれ上らせているの。大川のおかみさんも終いには泣き出してしまった。この前見たときよりも、赤坊はもっと頭が大きく、首がもっと細くなって見えた。そして赤坊らしくなく始終眉をしかめていた。 公判はこ・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・老人は手の甲で上髭を撫でた。髭には湿った空気が凝って露になっていたのである。そして空を仰いだ。もう空は日が見えなくなって、重くろしい、落ちかかりそうな、息の詰まるような一面の灰色になっている。老人は丘を下りて河の方へ歩き出した。さて岸の白楊・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ 自分はそれをいくつにも畳んでみたり、手の甲へ巻きつけたりしていじくる。後には頭から頤へ掛けて、冠の紐のように結んで、垂れ下ったところを握ったまま、立膝になって、壁の摺絵を見つめる。「ネイションス・ピクチュア」から抜いた絵である。女が白・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ 僕のそういったような言葉はどうやら青扇の侮蔑を買ったらしく彼は、さあ、と言ったきりで、自分の両手の手の甲をそろっと並べ、十枚の爪を眺めていた。 青扇は、さきに風呂から出た。僕は湯槽のお湯にひたりながら、脱衣場にいる青扇をそれとなく・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・これ見ろ、この手の甲に傷がある。これはお前にひっかかれた傷だ」 私はその差し伸べられた手の甲を熟視したが、それらしい傷跡はどこにも無かった。「お前の左の向う脛にも、たしかに傷がある筈だ。あるだろう? たしかにある筈だよ。それは俺がお・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・よく見ると、そのようにおおらかな、まるで桃太郎のように玲瓏なキリストのからだの、その腹部に、その振り挙げた手の甲に、足に、まっくろい大きい傷口が、ありありと、むざんに描かれて在る。わかる人だけには、わかるであろう。私は、堪えがたい思いであっ・・・ 太宰治 「俗天使」
・・・私にも、あんなに慕って泣いて呼びかけて呉れる弟か妹があったならば、こんな侘しい身の上にならなくてよかったのかも知れない、と思われて、ねぎの匂いの沁みる眼に、熱い涙が湧いて出て、手の甲で涙を拭いたら、いっそうねぎの匂いに刺され、あとからあとか・・・ 太宰治 「燈籠」
・・・ 落ちる時手を放して、僕は左を下に倒れて、左の手の甲を花崗岩で擦りむいた。立ち上がって見ると、彼は僕の前に立っている。 僕には此時始めて攻勢を取ろうという考が出た。併し既に晩かった。 座敷の客は過半庭に降りて来て、別々に彼と僕と・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・もう吹出物が手の甲にまでひろがって来ていて、いつか私は、こんな恐ろしい手をした女のひとを電車の中で見たことがあって、それからは、電車の吊革につかまるのさえ不潔で、うつりはせぬかと気味わるく思っていたのですが、いまは私が、そのいつかの女のひと・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・ 自分はやむをえず餌壺を持ったまま手の甲で籠の戸をそろりと上へ押し上げた。同時に左の手で開いた口をすぐ塞いだ。鳥はちょっと振り返った。そうして、ちちと鳴いた。自分は出口を塞いだ左の手の処置に窮した。人の隙を窺って逃げるような鳥とも見えな・・・ 夏目漱石 「文鳥」
出典:青空文庫