・・・父は眼鏡の上からいまいましそうに彼の手許をながめやった。そして一段歩に要する開墾費のだいたいをしめ上げさせた。「それを百二十七町四段二畝歩にするといくらになるか」 父はなお彼の不器用な手許から眼を放さずにこう追っかけて命令した。そこ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 女房は連りに心急いて、納戸に並んだ台所口に片膝つきつつ、飯櫃を引寄せて、及腰に手桶から水を結び、効々しゅう、嬰児を腕に抱いたまま、手許も上の空で覚束なく、三ツばかり握飯。 潮風で漆の乾びた、板昆布を折ったような、折敷にのせて、カタ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ という中にも、随分気の確な女、むずかしく謂えば意志が強いという質で、泣かないが蒼くなる風だったそうだから、辛抱はするようなものの、手元が詰るに従うて謂うまじき無心の一つもいうようになると、さあ鰌は遁る、鰻は辷る、お玉杓子は吃驚する。・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・なお更これから先きも手許に置いて面倒を見てやりたいが、それでは世間が承知しない。俺は決してお前を憎むのではないが暫らく余焔の冷めるまで故郷へ帰って謹慎していてもらいたいといって、旅費その他の纏まった手当をくれた。その外に、修養のための書籍を・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・今のうちに手許から離さないと、きっと悪いことがある」と、誠しやかに申したのであります。 年より夫婦は、ついに香具師の言うことを信じてしまいました。それに大金になりますので、つい金に心を奪われて、娘を香具師に売ることに約束をきめてしまった・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
・・・ もう一つ、貧困の時代に、苦しめられたものは、病気の場合であります。手許に、いくらかの金がなくては、医者を迎えることもできない。どんなに近い処でも、医者は俥に乗って来る。その俥代を払はなければならず、そして、薬をもらいに行けば薬代は払っ・・・ 小川未明 「貧乏線に終始して」
・・・ 為さんは店の真鍮火鉢を押し出して、火種を貰うと、手元へ引きつけてまず一服。中仕切の格子戸はあけたまま、さらにお光に談しかけるのであった。「お上さん、親方はどんなあんばいですね?」「どうもね、快くないんで困ってしまうわ」「あ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ もうあといくらも綱が手許に残っていなくなると、爺さんはいきなりそれで子供の体を縛りつけました。 そして、こう言いました。「坊主。行って来い。俺が行くと好いのだが、俺はちと重過ぎる。ちっとの間の辛抱だ。行って来い。行って梨の実を・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・手本が頭にはいりすぎたり、手元に置いて書いたり、模倣これ努めたりしている人たちが、例えば「殺す」と書けばいいところを、みんな「お殺し」と書いたりすれば、まことにおかしな[#「な」は底本では判読不可。268-上-8]ことではないか。 ・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・ついては、いつも思うのであるが、今日は同人雑誌の洪水時代で、毎月私の手元へも夥しい小冊子が寄贈される。扨それらの雑誌を見ると、殆んど大部分が東京の出版であり、熟れも此れも皆同じように東京人の感覚を以て物を見たり書いたりしている。彼等のうちに・・・ 織田作之助 「東京文壇に与う」
出典:青空文庫