・・・二人は墓前に紅梅の枝を手向けた。それから新しい四基の石塔に順々に水を注いで行った。…… 後年黄檗慧林の会下に、当時の病み耄けた僧形とよく似寄った老衲子がいた。これも順鶴と云う僧名のほかは、何も素性の知れない人物であった。・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ 母は水を手向けながら、彼の方へ微笑を送った。「うん。」 彼は顔を知らない父に、漠然とした親しみを感じていた。が、この憐な石塔には、何の感情も起らないのだった。 母はそれから墓の前に、しばらく手を合せていた。するとどこかその・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・結願の当日岩殿の前に、二人が法施を手向けていると、山風が木々を煽った拍子に、椿の葉が二枚こぼれて来た。その椿の葉には二枚とも、虫の食った跡が残っている。それが一つには帰雁とあり、一つには二とあったそうじゃ。合せて読めば帰雁二となる、――こん・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・それは九日に手向けたらしい寒菊や南天の束の外に何か親しみの持てないものだった。K君はわざわざ外套を脱ぎ、丁寧にお墓へお時宜をした。しかし僕はどう考えても、今更恬然とK君と一しょにお時宜をする勇気は出悪かった。「もう何年になりますかね?」・・・ 芥川竜之介 「年末の一日」
・・・が、時々往来のものの話などで、あの建札へこの頃は香花が手向けてあると云う噂を聞く事でもございますと、やはり気味の悪い一方では、一かど大手柄でも建てたような嬉しい気が致すのでございます。「その内に追い追い日数が経って、とうとう竜の天上する・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・苫家、伏家に灯の影も漏れない夜はさこそ、朝々の煙も細くかの柳を手向けられた墓のごとき屋根の下には、子なき親、夫なき妻、乳のない嬰児、盲目の媼、継母、寄合身上で女ばかりで暮すなど、哀に果敢ない老若男女が、見る夢も覚めた思いも、大方この日が照る・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ いつも変らぬことながら、お通は追懐の涙を灌ぎ、花を手向けて香を燻じ、いますが如く斉眉きて一時余も物語りて、帰宅の道は暗うなりぬ。 急足に黒壁さして立戻る、十間ばかり間を置きて、背後よりぬき足さし足、密に歩を運ぶはかの乞食僧なり。渠・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・雪国の冬だけれども、天気は好し、小春日和だから、コオトも着ないで、着衣のお召で包むも惜しい、色の清く白いのが、片手に、お京――その母の墓へ手向ける、小菊の黄菊と白菊と、あれは侘しくて、こちこちと寂しいが、土地がら、今時はお定りの俗に称うる坊・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 三人も香花を手向け水を注いだ。お祖母さんがまた、「政夫さん、あなた力紙を結んで下さい。沢山結んで下さい。民子はあなたが情の力を便りにあの世へゆきます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」 僕は懐にあった紙の有りたけを力杖に結ぶ。この時・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 多恨の詩人肌から亡朝の末路に薤露の悲歌を手向けたろうが、ツァールの悲惨な運命を哀哭するには余りに深くロマーノフの罪悪史を知り過ぎていた。が、同時に入露以前から二、三の露国革命党員とも交際して渠らの苦辛や心事に相応の理解を持っていても、双手・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
出典:青空文庫