・・・こう云う手数をかけてまでも、無理に威厳を保とうとするのはあるいは滑稽に聞えるかも知れない。しかし彼はどう云う訣か、誰よりも特に粟野さんの前に、――あの金縁の近眼鏡をかけた、幾分か猫背の老紳士の前に彼自身の威厳を保ちたいのである。…… そ・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・即ちこれ程の手数を経なければ、自分は到底安心することが出来なかったのである。 しかるにある時この醜態を先生に発見せられ、一喝「お前はなぜそんな見苦しい事をする。」と怒鳴られたので、原稿投函上の迷信は一時に消失してしまった。蓋し自分が絶対・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ と調子を低めて、ずっと摺寄り、「こう言うとな、大概生意気な奴は、名を聞くんなら、自分から名告れと、手数を掛けるのがお極りだ。……俺はな、お前の名を聞いても、自分で名告るには及ばない身分のもんだ、可いか。その筋の刑事だ。分ったか。」・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ こんな夜ふけになぜ洗濯をするかというに、風呂の流し水は何かのわけで、洗い物がよく落ちる、それに新たに湯を沸かす手数と、薪の倹約とができるので、田舎のたまかな家ではよくやる事だ。この夜おとよは下心あって自分から風呂もたててしまいの湯の洗・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・自分ばかりが呆気に取られるだけなら我慢もなるが、社外の人に手数を掛けたり多少の骨折をさせたりした事をお関いなしに破毀されてしまっては、中間に立つ社員は板挟みになって窮してしまう。あるいはまた、同じ仕事を甲にも乙にも丙にも一人々々に「君が適任・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
餅は円形きが普通なるわざと三角にひねりて客の目を惹かんと企みしようなれど実は餡をつつむに手数のかからぬ工夫不思議にあたりて、三角餅の名いつしかその近在に広まり、この茶店の小さいに似合わぬ繁盛、しかし餅ばかりでは上戸が困ると・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・そんな面倒くさい、骨の折れる手数はいらなくなった。くる/\廻る親玉号は穂をあてがえば、籾が面白いほどさきからとび落ちた。そして籾は、発動機をかけた自動籾擂機に放りこまれて、殻が風に吹き飛ばされ、実は、受けられた桶の中へ、滝のように流れ落ちた・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・長く濃かった髪は灰色に変って来て、染めるに手数は掛かったが、よく手入していて、その額へ垂下って来るやつを掻上げる度に、若い時と同じような快感を覚えた。堅い地を割って、草の芽も青々とした頭を擡げる時だ。彼は自分の内部の方から何となく心地の好い・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・この中畑さん御一家に、私はこの十年間、御心配やら御迷惑やら、実にお手数をかけてしまった。私が十歳の頃、五所川原の叔母の家に遊びに行き、ひとりで町を歩いていたら、「修ッちゃあ!」と大声で呼ばれて、びっくりした。中畑さんが、その辺の呉服屋の・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・「先日、お母上様のお言いつけにより、お正月用の餅と塩引、一包、キウリ一樽お送り申しあげましたところ、御手紙に依れば、キウリ不着の趣き御手数ながら御地停車場を御調べ申し御返事願上候、以上は奥様へ御申伝え下されたく、以下、二三言、私、明けて・・・ 太宰治 「虚構の春」
出典:青空文庫