・・・そこで前にも云った通り、家相を見て貰うのにかこつけて、お島婆さんの所へ行った時に、そっとその旨を書いた手紙をお敏に手渡して来たのです。お敏もこの計画を実行するのは、随分あぶない橋を渡るようなものだとは思いましたが、何しろ差当ってそのほかに、・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ と腰袴で、細いしない竹の鞭を手にした案内者の老人が、硝子蓋を開けて、半ば繰開いてある、玉軸金泥の経を一巻、手渡しして見せてくれた。 その紺地に、清く、さらさらと装上った、一行金字、一行銀書の経である。 俗に銀線に触るるなどと言・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・と小声でいうて手ぬぐいを手渡しながら、一層かすかな声で「省作さん」というた。その声はさすがにふるえている。省作は、「はア」と答える声すら出ないで、ただおとよさんの顔をじっと見上げているうちに、座敷の方で、「おとよおとよ」 と呼ぶのは・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・と、無理に手渡しした。「ほんとに、ほんとに、どんな悪魔がついたのだろう、人にこう心配ばかしさして」と、妻は僕の顔を睨む権利でもあるように、睨みつけている。 僕も、――今まで夢中になっていた女を実際通り悪く言うのは、不見識であるかのよ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・といいつつ二十銭銀貨を手渡して立ち去った。「僕はその銀貨を費わないでまだ持っている」と正作はいって罪のない微笑をもらした。 彼はかく労働している間、その宿所は木賃宿、夜は神田の夜学校に行って、もっぱら数学を学んでいたのである。 ・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・口早に言って花束を手渡してやっても、あの子はぼんやりしていますので、私は、矢庭にあの子をぶん殴りたく思いました。私まで、すっかり元気がなくなり、それから、ぶらぶら兄の家へ行ってみましたら、兄は、もうベッドにもぐっていて、なんだか、ひどく不機・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・どという大金があったのは、もうことしも大みそかが近くなって来ましたし、私が常連のお客さんの家を廻ってお勘定をもらって歩いて、やっとそれだけ集めてまいりましたのでして、これはすぐ今夜にでも仕入れのほうに手渡してやらなければ、もう来年の正月から・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
子供のころから、お洒落のようでありました。小学校、毎年三月の修業式のときには必ず右総代として校長から賞品をいただくのであるが、その賞品を壇上の校長から手渡してもらおうと、壇の下から両手を差し出す。厳粛な瞬間である。その際、・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・私はその二枚を山田君に手渡した。「これはいい。髪の毛も、濃くなったようですね。」山田君は、何よりも先に、その箇所に目をそそいで言った。「でも、光線の加減で、そんなに濃く写ったのかも知れませんよ。」私には、自信が無かった。「いや、・・・ 太宰治 「佳日」
・・・黙って妻に、いくぶん軽くなった財布を手渡し、何か言おうとしても、言葉が出ない。お茶漬をたべて、夕刊を読んだ。汽車が走る。イマハ山中、イマハ浜、イマハ鉄橋ワタルゾト思ウマモナク、――その童女の歌が、あわれに聞える。「おい、炭は大丈夫かね。・・・ 太宰治 「鴎」
出典:青空文庫