・・・だから、心持に手綱のかかっている前半より、一九〇〇年八月、チェホフが楽々と「ヴイ」を「トゥイ」にかえてクニッペルを呼び始めてから、訳者も彼女の心持をのばしている。 さて、再び訳者からは離れる。そしてチェホフが妻に向って、お前は今舞台稽古・・・ 宮本百合子 「シナーニ書店のベンチ」
・・・彼は手綱をとって馬の腹をうった。森の中から児供の泣き声は次第に近づき小さい裸の人間の形をしたものが雪路の上へ飛び出して来た。そして泣き叫びつつ橇を追っかけ始めた。百姓は夢中で橇を速める。小さい裸の人間の形をしたものも益々泣き叫んで追っかけて・・・ 宮本百合子 「一九二九年一月――二月」
・・・誰かが屋敷内で馬の手綱をひいて駈けて行く。老婆が、本会堂へ泥棒が入ったんだよ、と怒鳴る。主人がそれを制し、『おっ母さん怒鳴るなよ。あれは警鐘じゃないよ!』 主人の弟ヴィクトルが寝棚から降りて来て、着物を着ながら呟いている。『俺に・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・御者特有の横目で日本女が先ず片手にさげていた一つの新聞包みを蹴込みへのせ、それから自身車へのるのを見守り、弾機が平衡を得たところで、唇を鳴らし手綱をゆるめた。 冬凍った車道ですべらないようにモスクワの馬に、三つ歯どめの出た蹄鉄をつけてい・・・ 宮本百合子 「モスクワの辻馬車」
・・・が味方の手綱には大殿(義貞が仰せられたまま金鏈が縫い込まれてあッたので手綱を敵に切り離される掛念はなかッた。その時の二の大将の打扮は目覚ましい物でおじゃッたぞ」「一の大将もおじゃッたろう」「おじゃッた。この方もおなじような打扮ではお・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・やがて二頭曳の馬車の轟が聞えると思うと、その内に手綱を扣えさせて、緩々お乗込になっている殿様と奥様、物慣ない僕たちの眼にはよほど豪気に見えたんです。その殿様というのはエラソウで、なかなか傲然と構えたお方で、お目通りが出来るどころではなく、御・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・製作者自身は真実を書いているつもりでも、興奮に足をさらわれて手綱の取り方をゆるがせにすれば、書かれた物の内からは必ず虚偽が響き出る。大業にすることはすなわち致命傷であった。 私はこの点に自己を警戒すべき重大事を認めた。いかに苦しんでも苦・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫