・・・すると意外にもこれは、お君さんの手蹟らしい。ではお君さんが誰かの艶書に返事を認めたのかと思うと、「武男さんに御別れなすった時の事を考えると、私は涙で胸が張り裂けるようでございます」と書いてある。果然お君さんはほとんど徹夜をして、浪子夫人に与・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・つたない手跡に見覚えもなかった。紙包みを破って見ると、まだ新しい黄木綿の袋が出て来た。中にはどんぐりか椎の実でもはいっているような触感があった。袋の口をあけてのぞいて見ると実際それくらいの大きさの何かの球根らしいものがいっぱいはいっている。・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・帳面は俳句日記かなんかの古物であったかと思うが、明けて見るとなるほどいろいろの人の手跡でいろいろの句がきたなく書き散らしてある。自分は俳人でもないからと一応断わってみたが、たってと言われるので万年筆でいいかげんの旧作一句をしたためて帳面を返・・・ 寺田寅彦 「俳諧瑣談」
・・・筆子の手蹟である。 午後三重吉から返事が来た。文鳥は可愛想な事を致しましたとあるばかりで家人が悪いとも残酷だともいっこう書いてなかった。 夏目漱石 「文鳥」
・・・ 娘の手蹟を、なつかしげに封を切って、クルクルクルクルと読んで仕舞うと、ポンと放り出して、「あかん。とうめく様に云った。「何んや、 どこからよこいたんどすえ。「東京――お君からよ。 病気になって、偉う・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・毎朝、小さい鍵で、箱の蓋を開けるとき、自分は必ず丸い大様な書体で紙面を滑って居る母の手跡を期待して居る。 自分が其那に待ちながら、同じように待って居るに異いない母へ、屡々音信をしないのは、気の毒だと思わずには居られない。 今日も、先・・・ 宮本百合子 「樹蔭雑記」
・・・ 翌々日かなりしっかりした手蹟で安着の知らせと行く先の在所と両親の言伝を書いたさきの手紙がとどいた。 それを千世子はいつもになく引出しにしまったりした。何となし足りないものが有る様に千世子は毎日少しばかりずつ書いたりして暮して居た。・・・ 宮本百合子 「蛋白石」
・・・ 長太郎の願書には、自分も姉や弟妹といっしょに、父の身代わりになって死にたいと、前の願書と同じ手跡で書いてあった。 取調役は「まつ」と呼びかけた。しかしまつは呼ばれたのに気がつかなかった。いちが「お呼びになったのだよ」と言った時、ま・・・ 森鴎外 「最後の一句」
・・・剣術は儕輩を抜いていて、手跡も好く和歌の嗜もあった。石川の邸は水道橋外で、今白山から来る電車が、お茶の水を降りて来る電車と行き逢う辺の角屋敷になっていた。しかし伊織は番町に住んでいたので、上役とは詰所で落ち合うのみであった。 石川が大番・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
出典:青空文庫