・・・この女は何も口を利かずに手風琴ばかり弾いています。が、身なりはちゃんとしていますから、どこか相当な家の奥さんでしょう。のみならず二三度見かけたところではどこかちょっと混血児じみた、輪廓の正しい顔をしています。もう一人の狂人は赤あかと額の禿げ・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・どこからか、風におくられて手風琴の音がきこえてきたのでした。「まだ、別荘にいる人たちででもあるかなあ。」 じいさんは、耳を傾けました。それにしてはなんとなく、その音は、真剣で悲しかったのです。 そのとき、小舎の入り口に立ったのは・・・ 小川未明 「手風琴」
・・・軽雲一片月をかざしたのであたりはおぼろになった。手風琴の軽い調子が高い窓から響く。間もなく自分の宅に着いた。 三 縁辺に席を与えて、まず麦湯一杯、それから一曲を所望した。自分は尺八のことにはまるで素人であるから、彼が・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・で町の歌い手が手風琴をひいて歌っている。その歌い手と聴衆が繰り返し繰り返し映写される。しかしその巧妙な律動的なモンタージュによって観衆の心の中の奥底には一つの葛藤がだんだん発展し高調されて行くのである。また同じ映画でダンス場における踊る主人・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・そうして、若い娘と若い男二人がその奇抜な新宅の設備にかかっている間に、年老った方の男一人は客車の屋根の片端に坐り込んで手風琴を鳴らしながら呑気そうな歌を唄う。ところがその男のよく飼い馴らしたと見える鴉が一羽この男の右の片膝に乗って大人しくす・・・ 寺田寅彦 「鴉と唱歌」
・・・日露戦争の後から大正四五年の頃まで市中到処に軍人風の装をなし手風琴を引きならして薬を売り歩くものがあった。浅井忠の板下を描いた当世風俗五十番歌合というものに、「風ひきめまいの大奇薬、オッチニイ」とその売声が註にしてある。此書は明治四十年の出・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・上衣の襟フックをはずした赤衛兵が一つの窓に腰かけてまとまりなく手風琴を鳴らしている。ソヴェト・ロシアの兵士は、ソヴェトに選挙された時、二種の委員をかねる権利を与えられている。入営まで職についていれば除隊後新たに就職するまで失業手当を支給され・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・ 昼休み 賑やかな手風琴の音が工場の広場にひびきわたっている。地面に雪は凍っているが、そんなことはものともせず、モスクワ煙草工場の労働婦人たちが仕事着の上へ外套をひっかけた姿で、笑いさざめきながらぐるりと広場に・・・ 宮本百合子 「ソヴェト同盟の三月八日」
・・・銀鼠色の木綿服を着た若いアクスーシャとピョートルは、流れる手風琴の音につれて、そのブランコを揺りながら、今にも目にのこる鮮やかで朗らかな愛の場面を演じた。 第二芸術座、ワフタンゴフ劇場、カーメルヌイ劇場、諷刺劇場は、舞台を飾ることそのも・・・ 宮本百合子 「ソヴェトの芝居」
・・・ 実際上手下手は抜きにして殆ど家並にその家人の趣味を代表した音が響いて居るので、孝ちゃんの家でもいつの間にか、昔流行った手風琴を鳴らし始めた。 どっか恐ろしくのぽーんとした大口を開いた様な音からして、あんまりいい感じは与えない上に、・・・ 宮本百合子 「二十三番地」
出典:青空文庫