・・・が、わたしたちの心もちは少しも互に打ち解けなかった。いや、むしろわたし自身には彼女の威圧を受けている感じの次第に強まるばかりだった。彼女は休憩時間にもシュミイズ一枚着たことはなかった。のみならずわたしの言葉にももの憂い返事をするだけだった。・・・ 芥川竜之介 「夢」
・・・一体私自身は性質として初めて会った人に対しては余り打ち解け得ない、初めての人には二、三十分以上はとても話していられない性分である。ところが、どうした事か、夏目さんとは百年の知己の如しであった。丁度その時夏目さんは障子を張り代えておられたが、・・・ 内田魯庵 「温情の裕かな夏目さん」
・・・光治も打ち解けて少年のそばに寄って絵を見ますと、青々とした水の色や、その水の上に映っている木立の影などが、どうしてこうよく色が出ているかと驚かれるほど美しく写されていたのであります。光治はもはや笛を吹くことなど忘れてしまって、ただ自分も、こ・・・ 小川未明 「どこで笛吹く」
・・・二人はいっしょうけんめいで、将棋盤の上で争っても、心は打ち解けていました。「やあ、これは俺の負けかいな。こう逃げつづけでは苦しくてかなわない。ほんとうの戦争だったら、どんなだかしれん。」と、老人はいって、大きな口を開けて笑いました。・・・ 小川未明 「野ばら」
・・・ ほどもなく立ち昇る湯気に包まれて出で来たりし二人は、早や打ち解けて物言い交わす中となりぬ。親しみやすき湯治場の人々の中にも、かかることに最も早きは辰弥なり。部屋へと二人は別れ際に、どうぞチトお遊びにおいで下され。退屈で困りまする。と布・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・と低く独りごとのように呟いて、また海辺を静かに歩きつづけたのでしたが、後にもさきにも、あの人と、しんみりお話できたのは、そのとき一度だけで、あとは、決して私に打ち解けて下さったことが無かった。私はあの人を愛している。あの人が死ねば、私も一緒・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・嵐のせいであろうか、或いは、貧しいともしびのせいであろうか、その夜は私たち同室の者四人が、越後獅子の蝋燭の火を中心にして集まり、久し振りで打ち解けた話を交した。「自由主義者ってのは、あれは、いったい何ですかね?」と、かっぽれは如何な・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・いつもせめて、これぐらいにでも打ち解けて呉れるといいが、と果敢なくも願うのだった。 訪ねる人は不在であった。 兄はこう言った。「小説を、くだらないとは思わぬ。おれには、ただ少しまだるっこいだけである。たった一行の真実を言いたいば・・・ 太宰治 「葉」
・・・女房とすら彼は余所目には打ち解けなかった。朝夕顔を見合わす間柄はそんなに追従いうことの出来ないのは当然である。だが其兄とさえ昵まぬ太十だから、どっちかといえばむっつりとした女房は実際こそっぱい間柄であった。孰れの村落へ行っても人は皆悪戯半分・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・現に事が纏るという実用上の言葉が人間として彼我打ち解けた非実用の快感状態から出立しなければならないのでも分りましょう。こういうと私が酒や女をむやみに推薦するようでちょっとおかしいが、私の申上げる主意はたとい弊害の多い酒や女や待合などが交際の・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
出典:青空文庫