・・・法隆寺の塔を築いた大工はかこいをとり払う日まで建立の可能性を確信できなかったそうです。それでいてこれは凡そ自信とは無関係と考えます。のみならず、彼は建立が完成されても、囲をとり払うとともに塔が倒れても、やはり発狂したそうです。こういう芸術体・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・そして私はそういう学者の犠牲的精神に尊敬を払う事を忘れないつもりである。 しかし学者とこれに対する世間とから全く飛び離れた第三者の位置に立って見ると、これは世間というものが本当に学者を尊重し学術の進歩を期図する方法ではないような気がする・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・わたくしは初め行先を聞かれて、賃銭を払う時、玉の井の一番賑な処でおろしてくれるように、人前を憚らず頼んで置いたのである。 車から降りて、わたくしはあたりを見廻した。道は同じようにうねうねしていて、行先はわからない。やはり食料品、雑貨店な・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・と男も鵞鳥の翼を畳んで紫檀の柄をつけたる羽団扇で膝のあたりを払う。「古き世に酔えるものなら嬉しかろ」と女はどこまでもすねた体である。 この時「脚気かな、脚気かな」としきりにわが足を玩べる人、急に膝頭をうつ手を挙げて、叱と二人を制する。三・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・或は百姓が年貢を納め町人が税を払うは、即ち国君国主の為めにするものなれば、自ら主君ありと言わんか。然らば即ち其年貢の米なり税金なり、百姓町人の男女共に働きたるものなれば、此公用を勤めたる婦人は家来に非ず領民に非ずと言うも不都合ならん。詰る所・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・という肝癪の一言を以てその座を逐払うに止まるであろう。野心、気取り、虚飾、空威張、凡そこれらのものは色気と共に地を払ってしまった。昔自ら悟ったと思うて居たなどは甚だ愚の極であったということがわかった。今まで悟りと思うて居たことが、悟りでなか・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・勘定を払うんだよ。さあ。」「キーイ、キーイ、クヮア、あ、痛い、誰だい。ひとの頭を撲るやつは。」「勘定を払いな。」「あっ、そうそう。勘定はいくらになっていますか。」「お前のは三百四十二杯で、八十五銭五厘だ。どうだ。払えるか。」・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・日本やアメリカなどの若い労働者のように、半額などということはないが、それでもいくらかやすかったのを、今度は、六時間労働でも、大人なみ八時間労働とまったく同じ賃銀を払うということである。男の子も女の子も十六七になれば、食べるものも着るものも大・・・ 宮本百合子 「明るい工場」
・・・そこで山椒大夫もことごとく奴婢を解放して、給料を払うことにした。大夫が家では一時それを大きい損失のように思ったが、このときから農作も工匠の業も前に増して盛んになって、一族はいよいよ富み栄えた。国守の恩人曇猛律師は僧都にせられ、国守の姉をいた・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・そうしてその犠牲を払うことが聖旨を奉戴し忠良な臣民となるゆえんである。階級争闘が必然であるように見えるのは不忠な政治家や不忠な資本家などがいるからであって、すべての人が万民志を遂ぐることを理想とする忠良な臣民になりさえすれば、階級争闘などの・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫