・・・ある人は朗々と大きな声で面白いような抑揚をつけて読んだが、六かしい漢文だから意味はよく分らなかった。またある人は口の中でぼしゃぼしゃと、誰にも聞こえないように読んでしまった。後にはただ弔詞を包紙に包んだままで柩の前に差し出すのも沢山にあった・・・ 寺田寅彦 「鑢屑」
・・・おまけにおそろしく早口で、抑揚も区切りもないので、よくわからないが、しかし三吉には何かしら面白かった。ロシヤ革命とボルシェヴィキ。レーニン。ロシアの飢饉と反革命。それから鈴木文治や、アナーキズムへの攻撃。――ことに三吉には話の内容よりも、弁・・・ 徳永直 「白い道」
・・・しかもその流暢な弁舌に抑揚があり節奏がある。調子が面白いからその方ばかり聴いていると何を言っているのか分らなくなる。始めのうちは聞き返したり問い返したりして見たがしまいには面倒になったから御前は御前で勝手に口上を述べなさい、わしはわしで自由・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・なかなかもって抑揚頓挫波瀾曲折の妙を極めるだけの材料などは薬にしたくも持合せておりません。とそう言ったところで何もただボンヤリ演壇に登った訳でもないので、ここへ出て来るだけの用意は多少準備して参ったには違ないのです。もっとも私がこの和歌山へ・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・けれども席に着いて挨拶をする彼の様子といい、言葉数といい、抑揚の調子といい、すべてが平生の重吉そのままであった。自分は彼の言語動作のいずれの点にも、酒気に駆られて動くのだと評してしかるべききわだった何物をも認めなかったので、異常な彼の顔色に・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・ 一体、欧文は唯だ読むと何でもないが、よく味うて見ると、自ら一種の音調があって、声を出して読むとよく抑揚が整うている。即ち音楽的である。だから、人が読むのを聞いていても中々に面白い。実際文章の意味は、黙読した方がよく分るけれど、自分の覚・・・ 二葉亭四迷 「余が翻訳の標準」
・・・ ついこの間までラジオは、やさしい抑揚をつけてそう語った。被原爆地に、眼病のなかでも不治とされる「そこひ」が発生していると報ぜられている。 日本の一部の人々は、あんまり度々いや応なしに戦争にかりたてられてきたために、神経衰弱のよ・・・ 宮本百合子 「いまわれわれのしなければならないこと」
・・・ 掻口説く声が、もっと蠱惑的に暖く抑揚に富み――着物を脱いでからの形は、あれほかの思案のつかないものだろうか。 ベルトンが、激しい彼女の誘惑に打勝とうとして苦しむのが、却って見物を失笑させるのは、一つは、イサベルの魅力が見物の心を誘・・・ 宮本百合子 「印象」
・・・流行の説話体というものは、或る独特な作家的稟質にとってだけ、真にそのひとの云おうとすることを云わしめるもので、多くの他の気質の作家にとっては、必要でもない身のくねりや、言葉の誇張された抑揚や聴きてを退屈させない芸当やらを教え込むもので、意味・・・ 宮本百合子 「落ちたままのネジ」
・・・誰が好き、あれが好き、という表現を、街の娘さんたちが、あらいいわねえ、その声に抑揚をつけて口走る、そのようなものとして感じて、その感情の程度はのりこしたものとして、ああいう答えをしたのかも知れないとも思われる。あり来りの返事をしたってはじま・・・ 宮本百合子 「女の歴史」
出典:青空文庫