・・・といいながら、かばんの中の鉛筆を出して、ちょっと見せて、銭をそこへ投げ出しました。「自分のことは、自分でなさい。」と、お母さんが、おっしゃったけれど、次郎さんは、ききませんでした。「きよ、買っておくんだよ。」と、次郎さんは、念を押し・・・ 小川未明 「気にいらない鉛筆」
・・・ どうしても会わねばならないと思いつめた女の一途さに、情痴のにおいを嗅ぐのは、昨日の感覚であり、今日の世相の前にサジを投げ出してしまった新吉にその感覚がふと甦ったのは当然とはいうものの、しかし女の一途さにかぶさっている世相の暗い影から眼・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・そしてそれがだんだんはっきりして来るんですが、思いがけなくその男がそこに見出したものはベッドの上にほしいままな裸体を投げ出している男女だったのです。白いシーツのように見えていたのがそれで、静かに立ち騰っている煙は男がベッドで燻らしている葉巻・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 会堂に着くと、入口の所へ毛布を丸めて投げ出して、木村の後ろについて内に入ると、まず花やかな煌々としたランプの光が堂にみなぎっているのに気を取られました。これは一里の間、暗い山の手の道をたどって来たからでしょう。次にふわりとした暖かい空・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ある者は、銃口から煙が出ている銃を投げ出して、雪を掴んで食った。のどが乾いているのだ。「いつまでやったって切りがない。」「腹がへった。」「いいかげんで引き上げないかな。」「俺等がやめなきゃ、いつまでたったってやまるもんか。奴・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・ 蒲団をかづいできた雑役が、それをのしんと入口に投げ出した。汗をふきながら、「こんな厚い、重たい蒲団って始めてだ。親ッてこんな不孝ものにも、矢張りこんなに厚い蒲団を送って寄こすものかなア。」 俺はだまっていた。 独りになって・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ 私は二人の子供の前へ自分の足を投げ出して見せた。病気以来肉も落ち痩せ、ずっと以前には信州の山の上から上州下仁田まで日に二十里の道を歩いたこともある脛とは自分ながら思われなかった。「脛かじりと来たよ。」 次郎は弟のほうを見て笑っ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・足を洗おうとしていると、誰かしら障子の内でしくしくと啜り泣きをしている。障子を開けてみると章坊である。足を投げ出してしょんぼりしている。「どうしたんだ」と問えど、返事もしないでただ涙を払う。「お母さんはいないの?」と言えば顔を横に振・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・いいとしをして思慮分別も在りげな男が、内実は、中学生みたいな甘い咏歎にひたっていることもあるのだし、たかが女学生の生意気なのに惹かれて、家も地位も投げ出し、狂乱の姿態を示すことだってあるのです。それは、日本でも、西欧でも同じことであるのです・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・もしその困る人が一晩の間に急に可哀くなった別人なら、その別人にでも平気で投げ出してくれる。 ポルジイとドリスとはその頃無類の、好く似合った一対だと称せられていた。これは誰でもそう思う。どこへでも二人が並んで顔を出すと、人が皆囁き合う。男・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
出典:青空文庫