・・・ お千代は北の幸谷なる里方へ帰り、省作とおとよは湖畔の一旅亭に投宿したのである。 首を振ることもできないように、身にさし迫った苦しき問題に悩みつつあった二人が、その悩みを忘れてここに一夕の緩和を得た。嵐を免れて港に入りし船のごとく、・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 秋の夜、目の鋭いみすぼらしい男が投宿した。宿帳には下手糞な字で共産党員と書き、昨日出獄したばかりだからとわざと服装の言訳して、ベラベラとマルキシズムを喋ったが、十年入獄の苦労話の方はなお実感が籠り、父親は十年に感激して泣いて文子の婿に・・・ 織田作之助 「実感」
・・・と差出したのは封紙のない手紙である、大友は不審に思い、開き見ると、前略我等両人当所に於て君を待つこと久しとは申兼候え共、本日御投宿と聞いて愉快に堪えず、女中に命じて膳部を弊室に御運搬の上、大いに語り度く願い候神崎朝田・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・八ヵ月前にロシアに参りまして、今あなたと同じホテルに投宿しています。私たちはぜひあなたにお目にかかりたいのです。あなたがご多忙であることはよく存じていますし、またご迷惑をかけることも心苦しく思うのですが。しかし、それでもなお、あなたが大切な・・・ 宮本百合子 「日記・書簡」
出典:青空文庫