・・・ 女は咄嗟に指環を抜くと、ビルと一しょに彼の前へ投げた。「これは護身用の指環なのよ。」 カッフェの外のアスファルトには、涼しい夏の夜風が流れている。陳は人通りに交りながら、何度も町の空の星を仰いで見た。その星も皆今夜だけは、……・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべ・・・ 芥川竜之介 「羅生門」
・・・彼はこれらの関係を知り抜くことには格別の興味をもっていたわけではなかったけれども、偶然にも今日は眼のあたりそれを知るようなはめになった自分を見いだしたのだ。まだ見なかった父の一面を見るという好奇心も動かないではなかった。けれどもこれから展開・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 袖の香も目前に漾う、さしむかいに、余り間近なので、その裏恥かしげに、手も足も緊め悩まされたような風情が、さながら、我がためにのみ、そうするのであるように見て取られて、私はしばらく、壜の口を抜くのを差控えたほどであった。 汽車に連る・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ スポンと栓を抜く、件の咳を一つすると、これと同時に、鼻が尖り、眉が引釣り、額の皺が縊れるかと凹むや、眼が光る。……歯が鳴り、舌が滑に赤くなって、滔々として弁舌鋭く、不思議に魔界の消息を洩す――これを聞いたものは、親たちも、祖父祖母も、・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ ソッと抜くと、掌に軽くのる。私の名に、もし松があらば、げにそのままの刺青である。「素晴らしい簪じゃあないか。前髪にささって、その、容子のいい事と言ったら。」 涙が、その松葉に玉を添えて、「旦那さん――堪忍して……あの道々、・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・命のあらん限り悶えから悶えへと一生悶えを追って悶え抜くのが二葉亭である。『浮雲』の文三が二葉亭の性格の一部のパーソニフィケーションであるのは二葉亭自身から聴いていた。煩悶の内容こそ違え、二葉亭はあの文三と同じように疑いから疑いへ、苦みから苦・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・ そして、そこで、幾十年生きてきたしんぱくを、岩角から切りはなして、その根もとを掘り抜くとしっかり背負って、綱をたぐって上がってゆきました。しんぱくは、かつて自然をおそれて、人間にどれほどのことができるものかと、考えていたことの、たいへ・・・ 小川未明 「しんぱくの話」
・・・という、題名からして、お前の度胆を抜くような本が、出版された。 忘れもせぬ、……お前も忘れてはおるまい、……青いクロース背に黒文字で書名を入れた百四十八頁の、一頁ごとに誤植が二つ三つあるという薄っぺらい、薄汚い本で、……本当のこともいく・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・針を突き刺した途端一代の想いがあった。針を抜くと、女中は注射には馴れているらしく、器用に腕を揉みながら、五番の客が変なことを言うからお咲ちゃんに代ってもらっていいことをしたという言葉を聴いて、はじめて女中が変っていたことに気がついたくらい寺・・・ 織田作之助 「競馬」
出典:青空文庫