・・・多分行き倒れか転んで気絶をしたかした若い女の人を二人の巡査が左右から腕を抱えて連れてゆく。往来の人が立留って見ていた。自分はその足で散髪屋へ入った。散髪屋は釜を壊していた。自分が洗ってくれと言ったので石鹸で洗っておきながら濡れた手拭で拭くだ・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・と畳みたる枕を抱えながら立ち上る。そんなことを言わずに、これ、出してくれよと下から出れば、ここぞという見得に勇み立ちて威丈高に、私はお湯に参ります。奥村さんに出しておもらいなさいまし。 三 御散歩ですか。と背後より声・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・の生まれない前のもっと前からすでに気味の悪いところになっているので幾百年かたって今はその根方の周囲五抱えもある一本の杉が並木善兵衛の屋敷の隅に聳ッ立ッていてそこがさびしい四辻になっている。 善兵衛は若い時分から口の悪い男で、少し変物で右・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・ お河童にして、琴の爪函を抱えて通った童女が、やがて乙女となり、恋になやみ、妻となり、母となって、満ち足りて、ついには輝く銀髪となって、あの高砂の媼と翁のように、安らかに、自然に、天命にゆだねて思うことなく静かにともに生きる――それは尊・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・ 子供達は、そこから、琺瑯引きの洗面器を抱えて毎日やって来た。ある時は、老人や婆さんがやって来た。ある時は娘がやって来た。 吉永は、一中隊から来ていた。松木と武石とは二中隊の兵卒だった。 三人は、パン屑のまじった白砂糖を捨てずに・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・斯ういうように朝も晩もいろいろの事をさせられたのは、其頃下女も子守も居なかったのに、御父様は昼は家に居られないし、御母様は私の下に妹やら弟やらを抱えて居られたのでしたから是非もない事でした。然しこういうように慣らされたため今でも弟などのよう・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・自堕落は馴れるに早くいつまでも血気熾んとわれから信用を剥いで除けたままの皮どうなるものかと沈着きいたるがさて朝夕をともにするとなればおのおのの心易立てから襤褸が現われ俊雄はようやく冬吉のくどいに飽いて抱えの小露が曙染めを出の座敷に着る雛鶯欲・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・笑って、もうさんざん腹を抱えて反りかえるようにして、笑って笑い抜いたかと思うと、今度は暗い座敷牢の格子に取りすがりながら、さめざめと泣いた。「お父さま――お前さまの心持は、この俺にはよく解るぞなし。俺もお前さまの娘だ。お前さまに幼少な時・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・と章坊が着物を引っ抱えて飛びだすと、入れ違いに小母さんがはいってきて、シャツの上から着物を着せかけてくれる。「さ、これをあげましょう」と下締を解く。それを結んで小暗い風呂場から出てくると、藤さんが赤い裏の羽織を披げて後へ廻る。「そん・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ふたりで、その喫茶店へ行き、コーヒー一ぱい飲んで、やっぱり旗色がわるく、そのまま、すっと帰って、その帰途、兄は、花屋へ寄ってカーネーションと薔薇とを組合せた十円ちかくの大きな花束をこしらえさせ、それを抱えて花屋から出て、何だかもじもじしてい・・・ 太宰治 「兄たち」
出典:青空文庫