・・・ 私は、私より二寸位背の高い彼の人が、私の貸した本を腕一杯に抱えて、はじけそうな、銀杏返しを見せて振り向きもしないで、町風に内輪ながら早足に歩いて行く後姿なんかを思いながらフイと番地を聞いて置かなかった、自分の「うかつ」さをもう取り返し・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・と言って、両手で忠利の足を抱えたまま、床の背後に俯伏して、しばらく動かずにいた。そのとき長十郎の心のうちには、非常な難所を通って往き着かなくてはならぬ所へ往き着いたような、力の弛みと心の落着きとが満ちあふれて、そのほかのことは何も意識に上ら・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ お霜は遅れた一羽の鶏を片足で追いつつ大根を抱えて藁小屋の裏から現れた。「また来たんか?」「また厄介になったんや、すまんが頼むぞな。ええチャボやな。こいつなら大分大っきな卵を産みよるやろ?」「勘はな?」「さア、今そこにう・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫