・・・カーキ色の方は、手あたり次第に、扉を叩き壊し、柱を押し倒した。逃げて行く百姓の背を、うしろから銃床で殴りつける者がある。剣で突く者がある。煮え湯をあびせられたような悲鳴が聞えて来た。「あァ、あァ、あァ。」語学校を出て間がない、若い通訳は・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・この世の中のひとりでも不幸な人のいる限り、自分も幸福にはなれないと思う事こそ、本当の人間らしい感情でしょうに、自分だけ、あるいは自分の家だけの束の間の安楽を得るために、隣人を罵り、あざむき、押し倒し、まるでもう地獄の亡者がつかみ合いの喧嘩を・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・ 縄をほどかれて、しょんぼり立っていた虎蔵が、ひょいと物をねらう獣のように体を前屈にしたかと思うと、突然りよに飛び掛かって、押し倒して逃げようとした。 その時りよは一歩下がって、柄を握っていた短刀で、抜打に虎蔵を切った。右の肩尖から・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・『三四郎』に芽ざして『それから』に極度まで高まった恋愛の不可抗の力は、ついに正義を押し倒した。作者はこの事を可能ならしめるために享楽主義者を主人公とした。しかし不可抗の力の強さをきわ立たしめるためには、あらゆる同情を不義の恋に落ちて行く男女・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫